大久保忠朝

大久保忠朝

江戸時代前期から中期の大名、幕府老中。肥前国唐津藩主、下総国佐倉藩主、相模国小田原藩主。江戸時代初期に徳川家康に仕えるも本多正信・正純父子との政争に敗れ失脚した大久保忠隣(ただちか)は祖父にあたる。従兄・大久保忠職(ただもと)の養子となり、4代将軍・家綱の時に老中、5代将軍・綱吉の時には老中首座となった。1684年(貞享元年)に江戸城内で起きた、「大老・堀田正俊暗殺事件」では偶然にもその場に居合わせ、正俊を暗殺した稲葉正休を討ち果たした。元禄時代に編纂されたと考えられる政治解説書『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)では忠朝は「善人の良将」と評価されている。また、8代将軍・徳川吉宗が世に出るきっかけを作った人物として有名。その逸話は次のようなもの。吉宗が「頼方(よりかた)」と名乗っていた14歳の時、吉宗の兄たちが父とともに5代将軍・綱吉に拝謁したのに吉宗は次の間に控えていた。それを不憫に思った忠朝の気配りにより吉宗は綱吉への拝謁が叶い、世に出るきっかけとなったという。東京都港区海岸にある都立庭園・旧芝離宮恩賜庭園は忠朝が4代将軍・家綱から拝領した屋敷内の庭園「楽寿園」が始まり。

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