大久保忠隣

大久保忠隣

徳川十六神将のひとりとして知られる大久保忠世の息子(長男)。小田原藩の初代藩主でもある。
幼名は千丸。通称は新十郎。号は渓庵道白。忠隣は10歳の時から徳川家康に仕え、その家臣として1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦い、1584年の小牧・長久手の戦いなど数々の戦いに出陣し多大なる武功を挙げ、奉行職に任命された。
家康が関東に入ると忠隣は武蔵国羽生に2万石を与えられ、1593年には家康の3男・秀忠付の家老となった。翌1594年、父・忠世の死にともない家督を相続し、相模国小田原6万5000石を領するようになり、のちに小田原藩初代藩主となった。
1605年に徳川秀忠が二代将軍の座に就くと忠隣は老中に昇進、武功派最大の実力者としてその権力は絶大なものとなった。だが、これにより家康の重臣として権力を誇っていた官僚派の本多正信・正純父子との政争は激化、ついに1614年、忠隣追い落としを狙う正信の策謀により忠隣は突如改易を申し渡されてしまった。
そして、近江国に配流された忠隣は、1628年6月27日、失意のうちにこの世を去った。

反応