大友義統

大友義統

豊後大友氏22代当主。父は大友宗麟。幼名は長寿丸。別名は五郎。黒田孝高(如水)の強い勧めで一時キリスト教の洗礼を受け、コンスタンチノという洗礼名を授かった(のち棄教)。おもな官位は従五位下左兵衛督。
大友義統は、1576年、父・宗麟の隠居にともない家督を相続し大友氏22代当主となったが、その実権は依然として宗麟が握っていた。大友氏は父・宗麟の時に絶頂期を迎えていたが、1578年の耳川の戦いで島津氏に大敗を喫して以降、家中では内紛が続発し、有力庶家も反乱を起こすようになるなど衰退の兆しが見え始めていた。また、大友氏の勢力圏内であった肥後、筑後、筑前には肥前の龍造寺氏や薩摩の島津氏が侵攻をはじめ、大友氏は彼らとの戦いに明け暮れることとなった。
そして1586年、島津義久による豊後侵攻で大友氏は窮地に追い込まれる。この戦いで当主・義統は奮戦する家臣を置き去りに府内を撤退、もはや大友氏は滅亡寸前だった。
だが、ぎりぎりのところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着、さらに豊臣秀吉による九州征伐が始まり形勢は逆転した。そして、翌1587年に島津義久が降伏し、大友氏は豊後一国を安堵され生き残ることができた。天下人となった秀吉に羽柴・豊臣姓を使用することを許されるほど気に入られた義統だったが、1592年の文禄の役で大失態を演じてしまう。
義統は、小西行長から救援要請を受けながら行長戦死の誤報を信じて城を放棄し撤退してしまったのだ。これに秀吉は激怒、1593年、大友氏は改易となり義統は幽閉の身となった。秀吉の死後、幽閉を解かれた義統は秀吉の遺児・秀頼に仕え、1600年の関ヶ原の戦いに西軍として参加、御家再興を目指した。だが、黒田孝高の軍勢に敗れ降伏、今度は徳川から幽閉されることとなってしまった。その後、常陸国宍戸に流され、同地で失意のうちに没した。

反応