大友義鑑

大友義鑑

豊後大友氏20代当主で、キリシタン大名として知られる大友宗隣の父。通称は五郎。別名は親安、親敦とも。
1515年、父・大友義長の隠居にともない弱冠13歳にして家督を相続し、20代当主の座に就いた。とはいえ、実権は父・義長が握り、父の死後は祖父・親治が後見を務めた。相続直後に起こった朽綱親満の反乱など大友領内では父の代から内紛がしばしばおきていたが、義鑑の代にはこれらの反乱も治まりようやく国外に目を向けられるようになっていた。大友氏の勢力拡大に乗り出した義鑑は手始めに名門・菊池氏が弱体化しつつあった肥後に狙いを定め、自身の弟・重治を菊池氏の養子として送り込むことで肥後の支配をもくろんだ。
だが、弟・重治は義鑑と仲が悪かったこともあり大友氏からの独立を図り、ついに兄弟による骨肉の争いが起こった。さらに、義鑑の支配する豊後に大友義隆が侵攻を開始、義鑑は劣勢に立たされた。この状況を打破するため義鑑は室町幕府の力を借りる。
そして、1538年、室町幕府第12代将軍・足利義晴の仲介により大内氏と和睦、窮地を脱した大友氏は以後、戦国大名としての基盤を築いていった。だが、1550年、義鑑が三男・塩市丸を溺愛し、嫡男・宗隣を差し置いてこれに家督を譲ろうとしたことが原因でお家騒動が勃発する。
そして、宗隣派の粛清を進める義鑑に対し、身の危険を感じた宗隣派が逆襲に出て義鑑を襲撃、義鑑は重症を負い襲撃の2日後に死亡、塩市丸とその母はその場で殺害された。世にいう「二階崩れの変」である。

反応