大道寺政繁

大道寺政繁

後北条氏の家臣で北条氏康、氏政、氏直の3代に仕えた。
相模鎌倉代官、武蔵河越城主、武蔵岩槻城代を務めた人物で当主からの信頼もあつかった。幼名は孫九郎。別名は政重。通称は大道寺駿河守。官位は駿河守。「河越衆」と呼ばれる軍団を率い各地を転戦、大いに活躍した。また、内政手腕にも優れ、河越城主時代には河越城下発展のため数々の政策を行ったという。
1582年に織田信長が本能寺で急死したすきをつき、北条氏は上野、信濃への侵攻を図る。この時、先鋒となって西上野・信濃方面に侵攻したが政繁だ。政繁は信州国小諸まで進出し小諸城主となるが、北条氏と徳川家康の間に講和が成立したため小諸からの撤退を余儀なくされた。
その後、大道寺政繁は上野国松井田城を預けられ西上野支配という重要な役割を果たす。だが、1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が開始。中山道の入り口にある松井田城には前田利家らの大軍が攻め寄せた。政繁は必死の抵抗を試みるが兵力差はいかんともしがたく開城となった。戦後、秀吉から北条氏政、氏照、松田憲秀らとともに切腹を命ぜられ自害し果てた。切腹場所は河越城下とも江戸城下の桜田ともいわれる。

反応