太原雪斎

太原雪斎

「たいげんそうふ」とも読む。
臨済宗の僧で、今川義元のブレーンとしても知られる。俗姓は庵原。別号に崇孚。
駿河庵原周辺を治める庵原氏出身の庵原左衛門尉政盛の子として誕生した雪斎は、はじめ九英承菊と名乗り京都五山のひとつ建仁寺で修行し、のちに太原雪斎と改めた。
建仁寺での修行中、秀才として知られる雪斎の噂を聞いた今川氏親は五男・芳菊丸(のちの今川義元)の教育係として招聘した。一説には氏親からの要請を2度断り、3度目に承諾したといわれる。氏親の跡を継いだ今川氏輝亡きあと今川家中で勃発した後継者争い「花倉の乱」では雪斎は義元の生母・寿桂尼とともに義元を支持、その家督相続に大いに貢献した。
これにより今川義元は太原雪斎をあつく信頼し内政・外交などのブレーンとして重用した。僧侶でありながら軍略にも秀でた雪斎は、1548年の小豆坂の戦いで総大将を務め織田軍に勝利するなど軍事面でも活躍した。今川氏が東海地方を代表する戦国大名にのし上がったのは「今川氏の軍師」とも呼ばれた雪斎の活躍によるところ大であった。
そのため、1555年11月23日に雪斎が没すると今川氏の家運も下がり、ついに1560年、義元は桶狭間にて織田信長に討たれてしまった。

反応