孫崇賓碩そんすうひんせき

孫崇賓碩そんすうひんせき

孫崇は字を賓碩といい、北海郡安丘の人である。家はもともと、それほど豊かではなかった。後漢の桓帝の時代、中常侍の唐衡・徐璜・具援らは、桓帝と謀って大将軍梁冀を誅した功によって同日に候に封じられ、その権威は天子並みになった。唐衡の弟の唐玹は、兄の引きで京兆郡の虎牙都尉となって赴任したが、尹の延篤に対して礼を失したふるまいが多かった。功曹の趙息はこれに対して容赦ない態度で接したため、唐玹は委細を兄に報告し、趙息一族を滅ぼそうとした。唐玹はやがて京兆尹に任じられ、趙息は逃亡したが、従父の涼州刺吏趙仲台は捕らえられ、趙氏一族で慎重一尺以上の者はすべて殺害された。要するに生まれたばかりの子を含めて皆殺しにされたわけである。皮民の県長の趙岐も趙息の従父にあたる。家族が捕らえられて殺されると聞くや、官舎から逃亡し、姓と字を変えて河間郡に行き、さらに転じて北海郡に至った。そして貧しい服装で市場で胡餅を売っていた。そこで出会ったのが孫崇であった。孫崇は当時二十数歳、特車に乗って従者を引き連れ、市場に差し掛かった。趙岐を見て只の人ではないと思って、いくらで餅を仕入れていくらで売っているのかと問うた。趙岐は「三十銭で買って三十銭で売ります」と答える。孫崇は「処士は物売りに見えない。何か理由がおありでしょう」と言い、車に乗せた。趙岐は彼を唐玹の耳目と思って、恐れる色を見せた。孫崇は「処士の御様子に見るに、餅売りでもないし、今面色が変わった。大変な仇持ちでなければ、恐らく亡命者でしょう。私は北海の孫賓碩という者です。一家は百人、また百歳の老母が堂におります。あなたの相談に乗れるし、絶対に裏切りません。どうか事実をお話いただきたい」と言った。そこで趙岐は事情を物語った。家に着くと孫崇は母に「今日、死友を外出先で得ました」と語り、趙岐を母に紹介した。堂に招き入れて紹介するのは、余程心を許した相手でなければ、行わないことだった。そして牛を屠り酒を酌み交わし、心ゆくまで歓談した。一、二日後、別の田地に在る家に趙岐を送り届け、複壁の中に匿った。数年後、唐衡兄弟は全て死んで、趙岐はやっと表に出られ、本郡に戻った。三府からまねかれ、郡守・刺史・太僕を歴任した。また、孫崇もこの件で有名になり、後年に豫州刺史にまで昇進した。193年、孫崇は東方が飢饉に襲われたため、荊州に寄禺した。195年、当時太僕だった趙岐は節を持って天下を安撫する使者として各地を巡行、荊州において孫崇と劇的な再会を果たした。趙岐は孫崇に庇護された顚末を具に劉表に語ったので、劉表はいよいよ孫崇を冷遇した。しばらくして孫崇は亡くなると、南にいた趙岐は彼のために喪に服した。享年不明。孫崇が『魏略』の勇侠伝に名を残すことになったのは、宦官に追捕されていた趙岐という人を救ったからだった。一片の義心で身を顧みず、ついに初対面の趙岐の命を全うさせた孫崇の行為は勇侠の名に恥じないものがあり、再会はこの逸話をさらに盛りあげた。なお、孫崇との再会を『三輔決録』は、「孫崇は劉表の宴の末座に在って、「劉表は彼が同席しているとは知らなかった。趙岐は遙か上座から孫崇を見つけ出し、その義侠の行ないを劉表に物語り、二人で献帝に上表して彼を青州刺史とした」と記している。

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