孫邵長緒そんしょうちょうしょ

孫邵長緒そんしょうちょうしょ

孫邵、字を長緒といい、北海郡の人である。身長は八尺もあった。北海の相だった孔融の功曹となり、孔融は孫邵を廊廟の才ありとして高く評価した。後に江東の揚州刺史劉繇に身を寄せた。200年、孫権が江東を支配すると仕え、しばしば献策して用いられた。209年、廬江太守に任じられ、車騎将軍長史に遷った。222年、孫邵は初代の丞相・威遠将軍となり、陽羨侯に封じられた。張温と曁艶がいろいろと孫邵のことを諫言して上奏したため、官を辞して罪を請うたが、孫権は釈して復職させた。225年、孫邵は死去した。享年63。呉の建国で孫邵が初代丞相となっているにもかかわらず、伝がないことについて、『志林』の劉声叔は、「その名声や官位からすれば、当然伝が立てられるべきだ。呉史を編纂したとき、孫邵についての記録がすでにあったが、そこには孫邵と張恵恕(張温)は不仲だったと記されている。後に韋昭が『呉書』を著したが、おそらく韋昭は張恵恕の旧知だったので、孫邵を嫌って立伝しなかったのだろう」と答えた。『二十二史箚記』の著者趙翼も劉声叔と同意見で、「丞相孫邵が死去、顧雍がこれを継いだ。顧雍には伝があるのに孫邵に伝がないのは、『志林』が記すような事情があるからだ」と述べている。

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