宇喜多直家

宇喜多直家

下克上によって備前に覇を唱えた戦国大名。
備前の国人・宇喜多興家の子で宇喜多秀家の父。斉藤道三や松永弾正久秀と並び戦国時代を代表する梟雄とされ、中国地方三大謀将のひとりといわれる(ほかは出雲の尼子経久、安芸の毛利元就)。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守を称した。あだ名は謀聖。
宇喜多直家が6歳のときに祖父・能家が暗殺されたため、直家は父・興家とともに放浪するという辛い幼少期を送った。その後、天神城主・浦上宗景に仕えた。直家は権謀術数を用いて浦上家でのし上がっていき、家中髄一の実力者となっていった。浦上氏の勢力拡大に尽力した直家だったが、やがて主君・宗景からの独立を狙うようになる。1574年、主君・宗景に対し反旗を翻した直家は、安芸の毛利元就と手を組み宗景を追放、備前・備中・美作などに勢力を拡大した。
しかし、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の中国攻めが始まると初めはこれに対抗したが、1579年、ここまで協同体制をとってきた毛利氏と手を切り信長に帰順した。その後、毛利氏と合戦を繰り返したが、1581年、岡山城で病没した。その死はしばらく隠され翌年公表された。

反応