安楽庵策伝

安楽庵策伝

戦国時代から江戸時代にかけての浄土宗西山深草派の僧で、「落語の祖」ともいわれる。俗名は平林平太夫、諱は日快、号は醒翁、「策伝」は道号。美濃の戦国武将・金森定近を父に、飛騨高山城主・金森長近を兄に持つ。幼くして美濃にある浄音寺にて出家し、その後、京で学んだ。42歳の時に美濃に戻り浄音寺の25世住持となり、ここで17年を過ごしたのち、京の誓願寺55世法主となった。隠居後は茶室「安楽庵」で余生を過ごしたという。墓所は京都市中京区にある誓願寺。策伝は説教の講釈が非常に巧みで、“笑い”を取り入れることで字の読めない庶民にも楽しくわかりやすく仏教の教えを説いた。京都所司代・板倉重宗の依頼により長い年月をかけ滑稽説話集『醒睡笑(せいすいしょう)』8巻をまとめ、1628年(寛永5)に重宗に献上した。この説話集は「笑話集(わらいばなししゅう)」のさきがけとなり、のちには「子ほめ」など有名落語の元ネタとなるなど後代の落語家たちに多大な影響を与えた。また、策伝は幅広い交流関係を持っていたことでも知られ、親交があった人物には三代将軍・家光や作庭家として名高い小堀遠州などがいる。

反応