宋謙そうけん

宋謙そうけん

宋謙といい、出生も字も不明である。195年、孫策の江東征伐につき従い、劉繇を攻めた。太史慈が孫策に一騎討ちを挑んだ際に孫策につき従っていた13人の騎兵の一人として並んでいた。215年、孫権が合肥を攻めたとき、宋謙は一軍を率いて参加した。張遼の奇襲に遭い、宋謙の兵は徐盛の軍と共に逃げ出してしまった。しかし、潘璋が逃げ出した兵2人を斬ったため、宋謙の兵は持ち直した。222年、劉備が呉に侵攻してきた際に、陸遜の指揮下で朱然・潘璋・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓らとともに五万の軍勢でこれを撃退した。劉備が白帝城に撤退すると、徐盛や潘璋とともに攻撃するよう孫権に上奏するが、陸遜の反対もあり退けられた。他の人物の伝に付伝されたり、裴松之の注釈でも詳細は来歴は記述されていないため、字や生没年、官位などは不明である。小説『三国志演義』では方天画戟の使い手として登場する。208年に孫権が合肥城を攻めた際に、賈華とともに孫権の護衛として出陣する。そして孫権に攻め寄せてきた楽進を迎撃し、楽進が撤退すると追撃するが、李典の放った矢が心臓に命中し戦死することになる。孫権は宋謙の死を嘆き悲しみ、太史慈を仇打ちのため出陣させている。

反応