審配正南しんぱいせいなん

審配正南しんぱいせいなん

審配、字を正南といい、魏郡陰安県の人である。甥は審栄がいる。若いころから忠裂な志を持ち、意気を壮んだった。審配は初め、田豊・沮授・張郃らとともに冀州の牧韓馥を主で仰いでいた。191年、韓馥は脅されて袁紹に州牧を譲ると、審配はそのまま袁紹に仕えた。袁紹は審配に腹心の任を委ねて治中別駕とし、併せて州牧の府を統轄させた。袁紹は献帝奉載を勧める田豊・沮授の意見を用いず後手を踏み、衆をたのんで無謀な作戦を強行して官渡で曹操に大敗し、気落ちして202年に死んだ。袁紹は長子袁譚より末子の袁尚を美貌の故に愛し、彼を後嗣にしたいと考えていたが、それをはっきりさせる前の死であった。当然ながら、それぞれ思惑がある部下たちは、兄弟のどちらかに加担して、お家騒動となった。辛評・郭図が袁譚を推したのに対して、逢紀とともに審配は袁尚に肩入れした。袁紹の死後、ただちに曹操は冀州に入って袁譚・袁尚を討ち、しばしばこれを破った。203年、二人は曹操に大敗、鄴に逃げ還った。曹操が荊州の劉表攻撃に向かうと、兄弟の間で戦いが始まった。袁譚は敗れて平原に逃走、辛毗を使者に立てて、曹操に鄴に籠もる袁尚を攻撃してくれと依頼した。204年、曹操は鄴を包囲した。審配は曹操に内応した蘇由を奪って放逐し、部下の馮礼が裏切って引き入れた曹操の兵の頭上に大石を投じて全滅させるなど、大いに戦った。しかし曹操は城の周囲四十里にわたって深い堀を造り、漳水の水を引いて水攻めにした。攻撃は五月から八月に及び、餓死する者は半数を越えた。袁尚はこの時、平原で袁譚と戦っていたが、急を知って引き返した。審配はこれと呼応して包囲を破ろうとして失敗した。袁尚は陳琳らを送って降状を請うたが許されず、部将馬延の投降で軍が崩れたため、中山に逃走した。曹操は袁尚が投棄した印綬や大将軍の節鉞その他の器物を手に入れて、これらを城中の者に示すと、城内は潰乱状態となった。審配の兄の子審栄は東門を守っていたが、夜、門を開いて曹操の兵を入れて降伏し、審配は捕らえられた。しかし彼は声音も気力も壮烈で、少しも屈した色を見せず、見る者はみな驚嘆した。曹操は審配を引見して「誰が門を開けたか、卿は知っているか」と訊ねた。審配が知らないと答えると、「卿の兄の子の栄である」と教えた。審配は「役立たずの小僧奴がこんな事を仕出かしたか」と嘆じた。さらに曹操が「先に孤が城を囲んだ時、何と弩を多く射かけた事か」と言うと、審配は「その少なかったのをうらむのみ」と返した。曹操は袁氏父子に対する彼の忠節を高く評価して助命したかったが、辛毗の執拗な請いを拒めず、ついに殺害した。『先賢行状』には、陥落に先立って、敗亡を招いたのは辛毗・郭図らのせいだと怒った審配が、辛評とその家族を誅殺、これを怨んだ辛毗が泣いて処刑を請うたために、審配は斬られた、と記されている。冀州の出身の張子謙はこれより先に降伏していた。審配と不仲だった彼は、高手小手に縄められたその姿を見て、「正南、あんたは俺をどうしようも出来ないよ」と嘲った。すると審配は声を荒らげ「汝は降虜で私は忠臣だ。たとい死んでも、汝が生を貧るのよりましだ」と罵り、まさに刑が行われようとする時、刀を持っている兵を叱りつけて北に向けさせ「わが君は北に在すのだ」と言った。

反応