小林謙五
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 – 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
本籍滋賀県。中村覚陸軍大将の五男として東京に生れ、小林陣八郎の養子となる。東京府立一中を経て、1914年12月、海軍兵学校(42期)を次席で卒業し、1915年12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。給油艦「神威」分隊長、「峯風」水雷長、呉鎮守府参謀などを歴任し、1926年11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。
「蓼」艦長、アメリカ駐在、アメリカ大使館付武官補佐官、横須賀鎮守府参謀などの後、海軍省副官兼海相秘書官となり加藤友三郎大臣に仕えた。さらに、侍従武官、給油艦「鶴見」艦長、アメリカ大使館付武官、「球磨」「高雄」「陸奥」の各艦長などを歴任。1941年10月、海軍少将に進級し、第1艦隊参謀長として太平洋戦争を迎えた。
その後、呉鎮守府参謀長、連合艦隊参謀副長などを勤め、1944年10月、海軍中将となった。旅順方面特別根拠地隊司令官として終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となった。シベリア抑留中の1948年に戦病死した。
聯合艦隊参謀副長時代
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生誕 |
1893年3月22日 日本 滋賀県 |
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死没 | 1948年4月23日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1915 – 1948 |
最終階級 | 海軍中将 |
反応