小野忠明

小野忠明

江戸時代初期の剣豪、2代将軍・徳川秀忠の剣術指南役。前名は神子上典膳(みこがみてんぜん)、通称は次郎右衛門。安房国の里見家に仕える郷士の子として生まれ、はじめ里見家に仕えた。その後、「一刀流」の開祖・伊東一刀斎に弟子入りし、兄弟子・善鬼(ぜんき)を倒し一刀流の後継者となった。師・一刀斎の推挙により徳川家康に仕官し、のち柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の剣術指南役となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で功をあげ、「上田七本槍」と賞賛された。しかし、軍令違反で処罰され一時蟄居を命じられた。1614年(慶長19)の大坂の陣でも功をあげたが、高慢不遜だったという性格と政治的能力と無縁だったこと同僚とのトラブルが絶えなかったことなどから、秀忠の怒りを買い閉門に処せられたという。墓は千葉県成田市にある成田高校の裏山にある。なお、忠明は「小野派一刀流の開祖」ともいわれるが、忠明自身がこれを称したことはなく、忠明の子・忠常が「小野派一刀流」を称した。また、忠明のもうひとりの子(弟とも)である忠也は「忠也派一刀流(伊藤派一刀流)」を創始した。

反応