尼子経久

尼子経久

下克上により出雲を支配し、一代で尼子氏全盛期を築き上げた戦国武将。
幼名は又四郎。あだ名は、十一州の太守、鬼神、雲州の狼。おもな官位は、伊予守、民部少輔。
尼子経久は出雲守護代・尼子清定の息子(嫡男)として誕生、父・清定から家督を譲られると出雲守護代となった。経久は寺社領を横領したり、美保関の公用銭(税)の徴収を拒否するなど室町幕府を無視し尼子氏の勢力拡大を図った。だが、こうした経久の専横は室町幕府や国人らの反発を招き、1484年、守護代の職を剥奪されてしまう。
しかし、その2年後には経久は守護代に復権、以後、急速に足場を固めていき、1508年、主君・京極政経が死去すると事実上出雲を掌握し出雲の統治者となった。続いて経久は伯耆、石見、備後、隠岐などに勢力を拡大、その版図を急速に広げ尼子氏の全盛期を築き上げた。
しかし、配下の毛利元就が毛利家中の家督相続争い後、尼子氏から離反し大内氏に属したり、伯耆・備後守護の山名氏が反尼子であることが判明するなどし、しだいに尼子氏は劣勢になっていった。嫡男・政久は1518年に戦死していたため、1537年、孫・晴久に家督を譲り経久は隠居、1541年11月30日、居城・月山富田城で没した。
謀略の天才といわれた人物だったが、家臣に対しては非常に優しい気遣いをみせたという。

反応