尼子義久

尼子義久

出雲の戦国大名で月山富田城の城主。父は尼子晴久、曽祖父は尼子経久。
幼名は三郎四郎。号は友林。
尼子義久は、父・晴久が急死したことを受け1560年に急遽家督を相続した。当時、尼子氏は石見銀山を巡って毛利元就と抗争中であったが、義久は室町幕府将軍・足利義輝の和平提案を受け入れることを決める。しかし、毛利氏との和平がなったことで尼子氏を頼りに石見で毛利氏と戦ってきた国人衆は孤立、やがて尼子氏から離反していった。これは毛利元就の思惑通りであった。
そして、1562年には本城常光が毛利氏へ寝返り、元就は本格的に出雲侵攻を開始、1565年にはついに義久の居城・月山富田城は毛利軍に包囲されてしまった。戦いは篭城戦となったが毛利軍によって補給路が絶たれたため富田城内では次第に兵糧が不足、重臣たちの毛利氏への降伏も相次いだ。さらに義久が家老・宇山久兼を謀反の疑いにより誅殺するに至り城内は混乱を極めた。
そしてついに義久は富田城の開城を決意、これにより出雲に覇を唱えた戦国大名・尼子氏は滅亡した。尼子義久はその後、毛利氏の客分となり、1596年には出家し友林と号した。

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