岡嶋清熊

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岡嶋 清熊(おかじま きよくま)は日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校(第63期)卒。最終階級は、海軍で海軍少佐、海自で海将補。

1914年、熊本県に生まれる。熊本中学を経て1932年4月、海軍兵学校に第63期生として入校。1936年(昭和11年)3月19日に卒業し海軍少尉候補生としてアメリカ・ニューヨークまでの遠洋航海に出る。終了後、重巡洋艦「足柄」乗組。1937年4月、海軍少尉任官。同年9月、海軍練習航空隊飛行学生を拝命。同課程終了後、延長教育を受け、以後戦闘機搭乗員としての道を歩む。

1940年10月15日の空母「蒼龍」分隊長を皮切りに、1941年4月1日に空母「加賀」同年9月に、空母「大鷹」(一時的な任命)と空母の戦闘機隊の分隊長を歴任したのち、同年9月に航空母艦「飛龍」の戦闘機隊分隊長に任じられたが、このときに九六式艦上戦闘機から零戦に機種変換が行われた。初めて零戦に乗った岡嶋は「九六戦よりも確実にいい」と気に入ったが、終戦まで零戦に乗って戦い続けることとなった。同年12月8日、太平洋戦争が開戦となり、真珠湾攻撃に参加、岡嶋は第4制空隊の6機の零戦を率いて出撃したが、迎撃してくるアメリカ軍機はいなかったので、地上に並んでいたアメリカ軍機を銃撃して数機を炎上させた

真珠湾攻撃からの帰路で、F4Fワイルドキャットを含むアメリカ海兵隊の抵抗で苦戦中のウェーク島の戦いを支援。岡嶋は飛龍の零戦隊を率いての艦上攻撃機による爆撃の護衛任務を命じられたが、第二航空戦隊司令部が零戦を出し惜しみ、33機の攻撃隊に対して、飛龍と蒼龍から3機ずつのわずか6機の出撃が命じられたので、岡嶋が6機では十分に護衛できない、せめて飛龍から9機出撃すべきと進言したが、ウェーク島のアメリカ軍を甘く見た司令部は岡嶋の申し出を却下した。岡嶋の懸念通り、ウェーク島からは最後に残った2機のF4Fワイルドキャットが迎撃に上がって2機の九七式艦上攻撃機が撃墜されてしまった。岡嶋は2機のF4Fワイルドキャットのうちのカール・デビットソン少尉機を攻撃し命中弾を与え、被弾した同機はその後に田原功三飛曹がとどめを刺した。田原は残るもう1機のハーバート・フロイラー大尉機も撃墜している

空母「飛鷹」戦闘機隊飛行隊長の頃の岡嶋(階級大尉)
渾名 特攻を拒否した飛行隊長
生誕 1914年
日本 熊本県
死没 1995年2月24日
所属組織 大日本帝国海軍
警備隊
海上自衛隊
軍歴 1936 – 1945(日本海軍)
1953 – 1954(警備隊)
1954 – 1966(海自)
最終階級 海軍少佐(日本海軍)
海将補(海自)
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