島津義久

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薩摩の戦国大名・島津氏16代当主で、有能な3人の弟(義弘、歳久、家久)とともに九州平定を目指し島津氏最大版図を築いた。
幼名は虎寿丸。忠良、義辰、義久と改名し、法号は龍伯。通称は三郎左衛門尉。別名は又三郎。おもな官位は、修理大夫、従五位下、従四位下、贈従三位下。
自らの力で薩摩を平定した島津貴久の嫡男として誕生した義久は、幼少の頃はおとなしい性格で将来を危ぶむ声もあったが、祖父・忠良は義久の素質を見抜き「三州の総大将たる材徳自ら備わる」と義久に期待をかけていた。島津氏による薩摩統一の少し前となる1566年に父・貴久から家督を譲られ義久は16代当主となった。1569年には菱刈氏をやぶり薩摩を統一、1573年には大隅を統一、そして、1578年には耳川の戦いで大友氏の大軍を撃破し日向の完全支配も果たし、島津氏は三州統一を達成した。
一方、大友氏衰退により九州北部では龍造寺氏が台頭、島津氏に救援を要請してきた有馬氏の求めに応じ義久は、1584年、末弟の家久を総大将として島原に派遣し龍造寺軍と交戦、圧倒的な兵力差を覆し見事、龍造寺軍に勝利し島津氏に服従させた(沖田畷の戦い)。
こうして義久は、薩摩、大隅、日向、肥後、肥前、筑後を勢力圏に加え九州随一の戦国大名へ成長していった。義久に敵するのは大友氏だけとなったのである。だが、天下人となった豊臣秀吉が義久に対し戦争行為を禁じる「惣無事令」を発する。しかし義久はこれを無視し、1586年、九州統一を実現すべく大友氏へ攻撃を開始した。義久と弟たちは大友配下の武将が守る城を次々と攻略、九州統一はもう目の前まできていた。
だが、1587年、豊臣秀長率いる10万余の大軍勢が九州に上陸、さらに秀吉率いる10万余も上陸し薩摩を目指し進軍を開始した。これにはさすがの義久たちも撤退を余儀なくされ、同年、秀吉に降伏した。戦後、義久は鹿児島に戻ると出家し、名も龍伯と改めた。とはいえ、家中の実権は義久が握り続けた。義久には男子がなかったため、弟・義弘の子である忠恒が島津氏の家督を継いだ。
1600年の関ヶ原の戦いでは、弟の義弘は西軍に加担したが、戦後、義久はこれを義弘個人の行動であると主張し本領を安堵された。義久は死ぬまで絶大な権力を握り続け、義弘と忠恒とのいわゆる「三殿体制」を形成した。そして1611年3月5日、国分城にて病により没した。

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