嶋田功

嶋田功│無料動画│240px isao shimada20110424

嶋田 功(しまだ いさお、1945年11月8日 – )は、北海道三石郡三石町(現・日高郡新ひだか町)出身の元騎手・元調教師。騎手時代は優駿牝馬(オークス)通算5勝など牝馬限定競走で顕著な実績を残し、「牝馬の嶋田」「オークス男」等と称された。元騎手・元調教師の嶋田潤は実弟、元騎手の嶋田高宏は甥。騎手の嶋田純次との血縁関係はない。

プレクラスニー・タイセイアトムを輩出した「嶋田牧場」の三男として生まれ、3歳から馬に跨がっていた。揺りかご代わりにした馬の背で寝ていて泥田に落ちたこともあった。中学卒業後に上京して馬事公苑騎手養成長期課程へ入所し、修了後の1963年に東京・稲葉幸夫厩舎へ入門し、1964年3月1日に騎手免許を取得してデビュー。同期には菅原泰夫・松田博資。当時の表記は「島田功」であった。初年度は10勝に終わったが、2年目の1965年にはパナソニックで安田記念・七夕賞を勝利するなど大きく飛躍し、33勝を挙げて頭角を表す。その後も順調に勝利数を伸ばし、1968年には58勝を挙げて全国9位で初のベストテン入りを果たす。1969年には日本ダービーでタカツバキに騎乗し、当日は単勝支持率44.4%の1番人気に支持されるが、スタート直後の1周目スタンド前で落馬という散々な結果に終わった(優勝は6番人気のダイシンボルガード。大崎昭一騎乗)。嶋田は怪我こそ無かったものの、レース終了後の調整ルームで一人泣いていた。弟・潤がデビューした1970年からは戸籍どおり「嶋田」表記となり、1971年にはナスノカオリで桜花賞に優勝し、八大競走・クラシック競走初制覇。1972年にはタケフブキでオークスを勝つなど関東リーディングの首位を走っていたが、9月末の落馬事故により頭蓋骨骨折などの重傷を負って一時意識不明の重体となる。騎手生命を危ぶまれた事故であったが、4ヶ月半が経過した1973年2月に戦列へ復帰。5月にナスノチグサでオークス連覇を果たすと、タケホープに跨がった翌週のダービーではハイセイコーを破って優勝してしまう。タカツバキ事件の雪辱を果たしたが、10月の調教中に落馬して右脛を骨折、再度の長期療養となった。タケホープでの菊花賞臨戦直前の出来事であり、同馬には武邦彦が代打騎乗で勝利を収めている。4ヶ月の療養を経て1974年に復帰すると、5月5日にタケホープで天皇賞(春)を制覇、2週間後にはトウコウエルザで史上初・前人未到のオークス3連覇を達成。同一クラシック競走の3連覇は、1958年~1960年に皐月賞を3連覇した渡辺正人以来の快挙であった。1975年3月21日の中山第8競走で発走直前に他馬が暴れて嶋田の騎乗馬に衝突し、嶋田は左膝の靱帯断裂で3度目の休養を余儀なくされる。復帰後の1976年はテイタニヤで牝馬クラシック二冠を制し、秋にはアイフルで天皇賞(秋)にも優勝。オークスは怪我で1年空いたものの、騎乗機会4連勝という凄まじさで東京競馬記者クラブ賞特別賞を受賞。その後は1981年にテンモンでオークス5勝目を挙げ、1982年にはビクトリアクラウンでエリザベス女王杯を制した。騎手生活の晩年まで30勝前後を挙げる安定した成績を保っていたが、1988年に体力の限界を理由に騎手引退を発表。2月28日の東京第9競走をアイビートウコウで制し、最後の騎乗を勝利で飾った。通算7327戦951勝。

引退後は調教師に転身し、1989年に美浦トレーニングセンターにて厩舎を開業。初年度の12月に騎手生活最後の勝利を挙げたアイビートウコウでダービー卿チャレンジトロフィーを制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。GI級競走の優勝は無かったが、1990年にワカタイショウで中山大障害(秋)(当時グレード外競走)を制している。

基本情報
国籍 日本
出身地 北海道三石郡三石町
(現・日高郡新ひだか町)
生年月日 (1945-11-08) 1945年11月8日(73歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 東京→美浦・稲葉幸夫(1961 – 1985)
フリー(1985 – 1988)
初免許年 1964年3月1日
免許区分 平地
騎手引退日 1988年2月28日
重賞勝利 52勝
G1級勝利 14勝
通算勝利 7327戦951勝
調教師情報
初免許年 1988年(1989年開業)
調教師引退日 2012年
重賞勝利 4勝
経歴
所属 美浦トレーニングセンター
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