川島雄三

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川島 雄三(かわしま ゆうぞう、1918年2月4日 – 1963年6月11日)は、日本の映画監督。

青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。家は代々伝わる商家(酒屋)で、もともとは近江商人の出。父・徳蔵、母・ヨシの三男として生まれる。ヨシは下北半島の大畑八幡神社の娘で、川島が5歳のとき死亡。その後は義母に育てられる。運動は駄目だったが、成績優秀で本を読むのが好きな子供だった

青森県立野辺地中学校(現:青森県立野辺地高等学校)卒業。明治大学専門部文芸科に入学、学生時代は映画研究部に在籍。大学卒業後、松竹大船撮影所監督部に入社。撮影所前の松尾食堂に入り浸り、居候となる。食堂の娘と縁談話が持ち上がったが、子供を作れない体であることを理由に断る。このときすでに筋萎縮性側索硬化症を発病していたらしい。初の助監督公募で、2000人中8人の採用に選ばれる。島津保次郎、吉村公三郎、小津安二郎、野村弘将、木下惠介らの助監督を経る。1944年、監督昇進試験主席合格ののち織田作之助原作の『還って来た男』で監督デビュー。1946年、『追ひつ追はれつ』では日本初のキスシーンを撮った。松竹時代はコメディ映画を多く撮っていた

家を持たず、浅草や新宿など、都内の行きつけの宿を家替わりに泊まり歩いていたが、銀座の小料理屋「菊川」で働く中村八重司に惚れこみ、当時高級住宅だった日活アパートで一緒に暮らし始める。幼い頃亡くなった川島の母に八重司はそっくりだった。八重司は妊娠したが、川島は出産を許さなかった。また、夜ごとスタッフと飲み明かす日々を送り、飲み代は当時の金で毎月50万円に達した。助監督の給料が1万円の時代に5万円の舶来の洋服を着ていた。健康にも気をつかい、マレー半島のコブラの脂など、20種類以上の薬にサラリーマンの給料分の金額を毎月つぎ込んでいた

生年月日 (1918-02-04) 1918年2月4日
没年月日 (1963-06-11) 1963年6月11日(45歳没)
出生地 日本・青森県下北郡田名部町
(現:むつ市)
死没地 日本・東京都
職業 映画監督
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