張裕南和ちょうゆうなんわ

張裕南和ちょうゆうなんわ

張裕、字を南和といい、益州蜀郡の人である。劉備が劉璋と会見したとき、張裕は劉璋の従事として側に侍していた。彼がゆたかな鬚をはやしていたので、劉備がからかって、「昔わしは涿県に住んでいたころ、特に毛姓の家が多くて、東西南北みな毛という家だった。涿県の令は、『毛姓の諸家が涿をとりかこんで住んでいる』と称していた」というと、張裕はすぐさまいいかえして、「昔、上党の潞の長から、涿の令に昇進した者がおりました。涿の令はその後、官を去って家に帰りましたが、当時ある人が彼に手紙を出しました。宛名に潞の長と記せば涿の令であった事実を無視することになり、涿の令と記せば潞の長であった事実を無視することになります。そこで『潞涿君』と記しました」と答えた。劉備には鬚がなかったので、張裕はそのことをいってお返しをした。あるとき張裕はひそかに人に告げて、「220年に天下は代がわりするはずであって、劉氏の帝位はおしまいになる。ご主君が益州を手に入れられてから九年後、寅年(214年)から卯年(222年)の間に、これを失われるであろう」といった。その言葉を密告する者がいた。劉備はずっとその不遜な言葉を根にもっていたが、さらにその失言によって腹立ちが加わった。そこで張裕の漢中争奪に対し、「漢中の覇権を争ってはなりません。我が軍は必ず負けます」と諫言し、当たらなかったことを問題にして投獄し、彼を処刑しようとした。諸葛亮が上表して彼の減刑を要請したが、劉備は「かぐわしい蘭でも門に生えれば、刈り取らないわけにはいかない」と答え、張裕はかくて市場で死刑に処せられた。享年不明。天空の自然現象による予言の術に長けており、才能では楊厚から図識の術を学んでいた周羣よりも上回っていた。後に魏氏の即位や劉備の崩御は、すべて張裕の指示した時期に起こった。若年だった鄧芝の人相を見て「彼は70歳を過ぎて大将軍となり侯に封ぜられる」と予言した。また、人相術に精通していて、いつも鏡をとりあげ顔を映し、自分の刑死を見てとっては、鏡を地面に叩きつけていた。

反応