後水尾天皇

後水尾天皇

江戸時代前期の第108代天皇。諱は政仁(ことひと)。中宮は2代将軍・徳川秀忠の娘である東福門院和子。第107代天皇・後陽成天皇の第3皇子として生まれるが、徳川家康の皇位継承への介入もあり擁立され第108代天皇となった。こうした経緯が背景にあり、父である後陽成天皇から冷遇され、生涯、親子関係は不仲だった。徳川家康の孫で秀忠の娘である東福門院和子が入内し、朝幕関係の強化が図られたが、幕府により公布された「禁中並公家諸法度」による朝廷統制、京都所司代などを通しての干渉、前例を無視した春日局の無位無官での拝謁、天皇の勅許を幕府が軽視した「紫衣事件」などがたび重なり、気の強い後水尾天皇は幕府に対し激怒。ついに突如、東福門院との間に誕生した女一宮内親王(のちの明正天皇)への譲位を行った。女帝は「生涯を独身で過ごす」という不文律があったため、徳川の血を継ぐ天皇誕生を目論んでいた幕府は、この譲位に大きな衝撃を受けた。上皇となった後水尾天皇は、以後、霊元天皇まで4代の天皇の後見人として52年もの長きにわたり院政を敷き、幕府に抗い続けた。墓所は京都市東山にある泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)。また、京都市上京区にある相国寺には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた「後水尾天皇歯塚」がある。芸術的才能にあふれていた後水尾天皇は、譲位後に移り住んだ仙洞御所に当代一流の芸術家や文化人を集めサロンとし、「寛永文化」と呼ばれる文芸芸術隆盛の中心的存在となった。特に和歌を得意とし、歌集『鴎巣(おうそう)集』には2000首もの和歌が収録されている。また、徳川家康33回忌につくられた「蜘蛛手(くもで)」はパズルのような難解で高度な文字遊びで、後水尾天皇の卓越した言語センスをうかがわせる。日本屈指の名園として名高い修学院離宮も後水尾天皇が造営したものである。

反応