徐晃公明じょこうこうめい

徐晃公明じょこうこうめい

徐晃、字を公明といい、河東郡楊県の人である。子は徐蓋がいる。郡の役人となり、車騎将軍楊奉に従って賊を討伐し功績を立て、騎都尉に任命された。李カク、郭汜が長安を混乱に陥れると、徐晃は楊奉に、天子とともに洛陽に帰ることを進言した。楊奉はその考えに従った。天子は黄河を渡って安邑まで来ると、徐晃を都亭侯にとりたてた。洛陽に到着すると、韓暹と董承が毎日闘争をくりかえした。徐晃は曹操に帰伏するよう楊奉に進言した。楊奉は進言に従うつもりだったが、後になって気が変わった。曹操は梁にいた楊奉を討伐し、徐晃はけっきょく曹操に帰伏した。曹操は徐晃に兵を与え、巻・原武にいる賊軍を討伐させた。徐晃はそれらを打ち破り、裨将軍に任命された。呂布討伐につき従い、別軍として呂布の将・趙庶と李鄒らを降伏させた。史渙とともに河内においてスイ固を斬った。つき従って劉備を打ち破り、また白馬において顔良を打ち破り、進撃して延津まで行き、文醜を打ち破り、偏将軍に任命された。曹洪とともに賊の祝ヒを攻撃し、それを打ち破った。また史渙とともに袁紹の輜重車を故市で攻撃し、最大の戦功をあげ、都亭侯にとりたてられた。曹操がギョウを包囲し、邯鄲を破ったのち、易陽の令韓範は城をあげて降伏すると偽り、実際は城を守って抵抗した。曹操は徐晃を派遣して彼を攻撃させた。徐晃は到着すると城中に矢を射込み、事の結果について説明してやった。韓範は後悔したので、徐晃はすぐさま彼を降伏させた。別軍として毛城を攻撃し、伏兵を設けて襲撃し、三つの屯営を打ち破った。つき従って南皮において袁譚を打ち破り、平原にいる反逆の賊を討伐し、それに勝った。横野将軍に任命された。荊州征討につき従い、別軍として樊に駐屯し、中廬・臨沮・宣城の賊を討伐した。また、満寵とともに関羽を漢津に討伐し、曹仁とともに周瑜を江陵に攻撃した。210年、太原の反逆者を討伐し、大陵を包囲してそれを攻め落とし、賊の指揮者商曜を斬った。韓遂・馬超らが関右で反乱を起こすと、徐晃を汾陰に駐屯させて河東を鎮撫させ、牛と酒を賜い、徐晃の先祖の墓をまつらせた。曹操は潼関まで来ると、黄河を渡ることができないのを懸念し、徐晃を召し寄せて質問した。徐晃は「公がここで兵を誇示しているのに、賊は別軍を出して守備しております。私に精鋭をお貸しください。敵の背後を絶ちましょう」曹操は、徐晃に四千人の歩兵・騎兵を与え津を渡らせた。賊の梁興が五千人をひきつれて徐晃を攻撃した。徐晃は彼らを撃退し、曹操の軍は渡河できた。かくて馬超らを打ち破った。徐晃に命じて夏侯淵とともにテイ族を平定させ、曹操と安定でおちあわせた。曹操はギョウに帰還したが、徐晃に命じて夏侯淵とともに夏陽にいる残余の賊を平定させた。徐晃は梁興を斬り、三千余の家を降伏させた。張魯征討につき従った。曹操は別に徐晃を派遣して仇夷の種々の山テイ族を討伐攻撃させた。徐晃はすべてこれらを降伏させた。平寇将軍に昇進した。将軍張順の包囲を解き、賊陳福らの三十余個所の屯営を攻撃し、すべてこれらを打ち破った。曹操はギョウに帰還したが、徐晃と夏侯淵を留めておき、陽平において劉備を防がせた。劉備は陳式ら十余の軍営の兵を派遣し、馬鳴閣街道を絶ち切った。徐晃は別軍としてそれを征討して打ち破った。曹操はたいそう喜び、徐晃に節を与えた。徐晃に曹仁を助けて関羽を討伐させ、宛に駐屯させた。たまたま漢江の水が突然あふれ、于禁らが水没した。関羽は曹仁を樊に包囲し、また将軍呂常を襄陽に包囲した。徐晃のひきつれていた兵は新たに味方についた兵卒が多く、関羽と勝敗を争うのがむずかしかったので、けっきょく前進して陽陵坡まで行って駐屯した。曹操はまた将軍の徐商・呂建らを徐晃のもとに派遣し、関羽の包囲陣から三丈ばかり離れたところまで来た。攻撃に入る前に、曹操は殷署・朱蓋らの屯営の兵を徐晃のもとに派遣した。関羽は自身歩兵・騎兵をひきつれて、出て戦った。徐晃がそれを攻撃すると、退却した。そのまま深く追撃し、彼らとともに包囲陣の中にまで入り、これを打ち破った。曹操は徐晃を七里先きまで出迎え、大宴会を催した。曹操は諸陣営を巡察したが、士卒はすべて陣を離れて見物していたのに、徐晃の軍営は整然としてととのい、将兵は陣に止まったまま動かなかった。曹丕が王位につくと、徐晃を右将軍に昇進させた。帝位につくと、楊侯に昇進させた。夏侯尚とともに上庸において劉備を討伐し、これを打ち破った。徐晃に陽平を鎮護させ、陽平侯にくにがえした。曹叡が即位すると、呉の将軍諸葛瑾を襄陽において防いだ。病気が重くなると、徐晃はその時節の衣服で身をつつんでくれと遺言した。227年、逝去した。享年不明。つつましく、慎重そのものの性格で、軍をひきいているときは、いつも遠くまで物見を出し、あらかじめ勝てない場合の配慮をしておき、そのあとで戦った。逃走する者を追い勝利を争うときには、兵士は食事の暇もなかった。彼は常に「昔の人はよく明君に出会えぬことを嘆いたものだが、わしは幸運にもその明君にお会いする事ができた。だから、功績をあげてこの幸運に答えなければならぬ。個人の功名など何ほどのこともない」と言い、最後まで徒党を組む事はしなかった。関羽討伐のさいに、勝利して大宴会を催したとき、士卒はすべて陣を離れて見物していたのに、徐晃の軍営は整然としてととのい、将兵は陣に止まったまま動かなかったことを見て、曹操はますます徐晃を篤く信頼し「徐晃には周亜夫の風格がある」と称えた。裴松之によると、考えてみるに徐晃は当時(張魯征討時期まで)にあってまだ曹操の臣下として称しているはずがない。漢の臣下に属し、伝写したもののまちがいであろう、としている。小説『三国志演義』では、大斧を愛用する武将として登場する。副将の王平と意見が合わずに衝突し、結果として王平が蜀漢に寝返ったことに激怒する(王平が徐晃の副将という話は創作)など少々短気な面も見せるが、怪我をしていたとはいえ関羽を一騎打ちで退けるなど魏屈指の勇将として描かれている。また、かつて蜀臣だった孟達が再び帰参する動きを見せたために、その討伐中に孟達が放った矢に額を貫かれたことによる大量出血で亡くなったことになっている。

反応