恋川春町

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江戸時代中期の戯作者、浮世絵師。本名は倉橋格(いたる)。幼名は亀之助、通称は隼人のち寿平、号はほかに寿山人、寿亭、春町坊。狂歌での名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。「春町」のペンネームは藩邸があった江戸小石川春日町をもじったもの。
春町は武家の出身であり、父は紀州徳川家附家老・安藤帯刀の家臣である桑島勝義。春町は駿河国小島藩士となり藩主・松平昌信に仕え、右筆見習、小納戸格、刀番などを務めた。昌信から信義に藩主が変わるとさらに出世し、藩政の中枢に参与するまでに。その一方、浮世絵を鳥山石燕に学び、1775年(安永4)には自作自画の『金々先生栄花夢』を刊行、それまでにない当世風俗を描いた知的で諧謔のきいた大人向けの読み物として人気を博し、「黄表紙」という新ジャンルの祖といわれるまでになった。その後も『無益委記(むだいき)』『三幅対紫曾我』など多数の自画作品を送り出し、黄表紙ブームを巻き起こした。しかし、1789年(寛政元年)に刊行した黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』が時の老中・松平定信の推進する「寛政の改革」を風刺する内容だったことから、定信から出頭を命じられる。春町は病気を理由にこれを固辞したが、まもなく没した。自殺ともいわれる。墓所は東京都新宿にある成覚寺。春町と同じく武士で流行作家でもあった朋誠堂喜三二とは深い親交があり、春町画・喜三二作のコンビ作も数多くある。

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