文欽仲若ぶんきんちゅうじゃく

文欽仲若ぶんきんちゅうじゃく

文欽、字を仲若といい、豫州譙郡の人である。父は文稷、子は文鴦、文虎がいる。219年、西曹椽の魏諷が曹操の不在の間に鄴都を襲おうとして失敗し、曹丕に殺された。文欽は魏諷の言辞に関連したところがあったとして、あわや処刑されるところだったが、父文稷が、騎兵隊長として活躍した点を考慮され、鞭打ちの刑で済まされた。227~232年の間に、牙門将となった。文欽は粗暴で礼儀をわきまえず、どの官に就いても弾刻されたが、明帝曹叡はそれを握りつぶしていた。廬江太守・鷹揚将軍に昇進すると、王凌は「彼は辺境を守る器に非ず」と上奏、このため召還された。しかし、曹爽は文欽と同郷だったので手厚く遇し、再び廬江に戻し、冠軍将軍に昇進させ、いっそう貴寵を加えた。文欽はますます驕恣となり、勇壮さを誇り、軍中で虚名を得た。249年、後楯だった曹爽が殺されたが、朝廷では文欽を前将軍に昇進させて、その心を落ち着かせた。251年、王凌討伐に際し、諸葛誕は鎮東将軍・假節・都督揚州諸軍事となり、廬江郡の文欽もその統轄下に入った。曹爽が誅殺された後、文欽は常に内心に不安を抱いていたが、諸葛誕とは互いに憎しみ合っていたので、叛乱の謀議は交わさなかった。252年、諸葛誕は東興で諸葛恪に敗れた罪を問われて豫州に転任し、毌丘倹が代わって諸葛誕の役職に就任した。文欽は勇猛で、しばしば戦功があったが、好んで捕虜や戦利品の数を水増しし、寵賞を得ようとして多くは認められず、怨恨を暮らせていた。毌丘倹はかねてから淮南で曹氏のために挙兵し、司馬氏を討とうと考えていたので、文欽を厚遇して好意を示した。文欽は感激して心から忠実な態度を取った。255年正月、呉・楚の分野に彗星が流れた。二人は自分たちに対する瑞兆だと喜び、郭太后の詔を偽作、司馬師の罪状を書き連ねた文章を郡国に送って挙兵に踏み切った。率いる兵は五、六万人でこれを二手に分けて寿春を進発した。毌丘倹は北上して項城を守り、文欽は遊軍となった。十余万の大軍を率いて司馬師が南下して来たが、彼は諸将を制して戦わせず、儉たちが自壊するのを待った。そして兗州刺史鄧艾率いる泰山郡の諸郡一万余人を楽嘉に駐め、わざと弱体にみせかけて文欽に誘いを掛けよと命じた。文欽の子文鴦が楽嘉を襲い、大いに一喝した。しかし文欽の到着は遅く、夜も明けるころで、すでに戦機は去っていた。司馬師は左長史司馬璉に八千騎を率いて追撃させ、将軍楽綝は歩兵を率いてこれにつづいた。これだけの大軍に追われては、文鴦として敵し得なかった。沙陽で大敗し、文欽と文鴦、その弟文虎らは麾下とともに項城に奔った。毌丘倹は文欽が敗れたと聞いて寿春に逃れようとしたが、安風津都尉の部民張属に射殺されてしまった。1月21日のことだった。文欽父子たちは辛うじて脱出、呉に亡命した。呉に入った文欽は、都護・假節・鎮北大将軍・幽州の牧・譙候となった。しかし、他国に身を置きながら節を屈して人に謙れず、呂據・朱異らを初め諸将軍から憎まれた。ただ孫峻だけは彼を愛して側近くに置いた。257年5月、諸葛誕は司馬氏の専横を怒ると同時に、淮南に出鎮した王凌や毌丘倹が殺害され、また親好があった夏侯玄が処刑されたことに不安を感じて、ついに挙兵した。これに先立って、彼は末子の諸葛靚と長史呉網を呉に派遣して救援を求めた。孫峻は文欽・唐咨・全懌ほかの諸将に命じて寿春城に送り、諸葛誕と協力して魏に当たらせた。文欽は憎んでいた諸葛誕のために、魏の二十六万の大軍と戦う破目となった。258年、文欽は作戦を廻って諸葛誕と対立して殺害された。享年不明。『魏末伝』にいう。この時、幼いころ曹氏の家の家僕として仕えた尹大目という人が、殿中校尉として司馬師の側近くにいた。彼は司馬師の病が重いと知り、「自分は昔文欽に信頼されていたから、説いて味方に付ける」と申し出た。そして武装して大馬に乗り、一人で文欽の後を追って遙かに語りかけた。「君候には何を苦しんで数日の御辛抱が出来ないのでしょうか」。実は尹大目は魏の安泰を願っていて、司馬師の余命が幾許もないことを、文欽に覚らせようとしたのだった。しかし、それが文欽には伝わらなかった。「汝は先帝の家人でありながら報恩を念わず、司馬師とともに叛逆するのか」と、声を荒らげて罵倒した。尹大目は涙を流しつつ「世の中の事は敗れ去りました。精一杯御努力下さい」と言い、悄然と引き返した。尹大目は曹爽に信頼されていた。249年、司馬懿がクーデターを起こした際、尹大目は曹爽に「洛水に誓って免官するに止める」という司馬懿の言葉を伝えた。それを信じた曹爽は兵を解き、そして一族もろとも殺された。尹大目は結果として曹爽を裏切ったことになってしまった。文欽を追ったのは、せめてもの償いのつもりであろう。陳寿は、「叛臣」たちが滅亡への途を歩む姿を淡淡と描くと同時に、彼らが遺した見るべき事績も書き記した。例外は文欽である。陳寿が描く文欽は狡猾で単純粗暴な将軍であり、注に引く王沈の『魏書』も同じ書きぶりである。

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