曁豔子休きえんしきゅう

曁豔子休きえんしきゅう

曁豔は字を子休といい、呉郡の人である。太子太傅張温は曁豔を選曹郎として用い、官吏の選抜に当たらせた。曁豔は昇進して尚書となり、軍事・政事の重要な職務を分担した。当時、郎官に署せられた者の大半が不適任な人材ばかりなので、曁豔は人物の良否と賢愚の区別をはっきりさせようとし、これを実行に移した。百官の落ち度を厳しく指摘し、改めて選び直した。ほとんどその全員を、高位から一挙に数等降格して低い位に就け、旧位に留められた者は十人に一人もいなかった。中でも、官職に居座って欲が深く心が卑しいくて、志操を汚している者は、みな軍吏とし、特別の兵営を設けてそこに収容した。曁豔のこうしたやり方に対して、陸遜の弟の陸瑁は曁豔に手紙を送り「そもそも聖人とは人の善を嘉し、愚昧を憐れみ、過ちを忘れ、功績のみを取り上げて、教化を喚声しているのだ」と言い、「善悪を区別して評価を与えることは、風俗を正し、教化を明らかにするのに役立つが、王業が始まったばかりの今、実行するのは容易ではない。漢の高祖が瑕を棄てて人材を登用した例に倣うべきである」と忠告したが、曁豔はせっかくの意見を用いようとはしなかった。侍御史朱拠もまた同じ意見で「性急に事を運んで身の禍いとなろう」と戒めたが、曁豔はこれもまた無視した。丞相孫邵は、曁豔に張温まで同調してあれこれ論われたため、官を辞して罪を請うたこともあった。曁豔は同郡の除彪とともに、この性急な方針を強引におし勧めたため 、怨みと憤りの声が積もった。人々は蔭で「曁豔と除彪は公平な道理に基づかないで、私情によって事を専断している」と譏った。彼らは罪に問われ、ついに自殺を命じられた。張温は曁豔・除彪に以前から同調し、しばしば書簡のやりとりをしていたため、二人とともに罪にあてられた。曁豔は狷介な上に激しい性格で、好んで人物批評を行なった。曁豔と除彪は、彼らなりに人物本位の人事を行おうとしたのだろうが、時期が悪かった。張温の高い名声を忌んだ孫権が、彼を罪に陥れる理由を考えた矢先、曁豔を罰するとともに、「曁豔がやったことはみな張温の首唱による」と言って、衆心が帰している張温に人々の怨嗟が向けられるようにした。曁豔の張温は孫権の老獪な手法の犠牲者だった。

反応