曹操孟徳そうそうもうとく

曹操孟徳そうそうもうとく

曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ大尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子將(許劭)から、「子治世之能臣亂世之奸雄」または「君清平之奸賊亂世之英雄」と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任した。洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩(けんせき)の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは曹操追放を画策したが理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、その功績によって済南の相に任命された。済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。中平5年(188年)、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた西園八校尉に任命された。故郷にいるとき、王芬、許攸、周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、伊尹、霍光、呉楚七国の乱を例に挙げて参加を断った。後漢末期黄巾の乱勃発以前、朝廷の実権を握り、栄華をほしいままにしていた10人の宦官「十常侍」を粛清するため、大将軍何進は諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し宦官を排除して天子を補佐することが権力を握るための最短路となった。中平6年(189年)8月27日、首謀者の何進が段珪に殺されるも、袁紹と袁術が宮殿を攻めて宦官を皆殺しにしたことで、朝廷内に栄華を極めた宦官の時代もついに終焉を迎えた。しかし、大宦官・曹騰の孫である曹操にとっては、安定して出世する事が出来たはずであった未来もまた、同時に失われたとも言える。何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝協を立て、朝廷を牛耳った。董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。この帰郷の際の有名な逸話が呂伯奢の家族の殺害である。呂伯奢は曹操の知人で、呂伯奢本人は曹操が立ち寄った際には留守であったという。王沈の『魏書』では、呂伯奢の息子達による襲撃に対する正当防衛、『世語』では、呂伯奢の息子達の裏切りを心配した曹操の一方的な虐殺、『異同雑語』では、食器を用意する音を曹操殺害の準備と勘違いしたことによる、事故的な過剰防衛としている。特に『異同雑語』では、曹操が「自分が人を裏切ることはあっても、人が自分を裏切ることは許さない」と言ったとされる。『三国志演義』では、この発言が曹操から陳宮が離れて行くことになった切っ掛けとしており、曹操の悪役のイメージを決定付ける逸話になっている。なお、『三国志』本文には、この逸話の記述はない。 ちなみに、曹操を捕えた中牟県の県令は『演義』では陳宮になっているが、実際には楊原が正しい。 その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した。『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲(えいじ)の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵や曹洪や曹仁・曹純兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。初平元年(190年)、袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍は董卓に恐れを抱き、董卓の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、あまり積極的に攻めようとはしなかった。やがて諸侯は互いに牽制を始める。董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、前述のような諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。業を煮やした曹操は鮑信や張邈の配下の衛茲とともに董卓を攻撃した。しかし曹操・鮑信・衛茲の軍は董卓配下の徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲は戦死した。その後、曹操は軍の再編をするために揚州で徴兵し、司隸の河内郡に駐屯した。董卓が長安に撤退し、孫堅が洛陽を制圧すると、反董卓連合軍は解散した。初平2年(191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守に任命された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。初平3年(192年)、董卓が呂布に暗殺されると、各地で黄巾の残党が暴れ始めた。兗州の刺史・劉岱が黄巾の残党に殺された。そこで鮑信らは曹操を兗州牧に迎えた。 黄巾討伐の詔勅を受け、青州の黄巾軍の残党30万を討伐。これを降して自身の勢力に組み入れ、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。初平4年(193年)頃、袁紹と袁術の兄弟が仲違いをした。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(・亭の戦い)。敗れた袁術は寿春に落ち延びていった。興平元年(194年)春、曹操は袁術の軍を打ち破ったので徐州から帰還したが、前年に陶謙の部将に父・曹嵩や弟・曹徳を含めた一族を殺されていた。同年夏、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、徐州に再度侵攻する。曹操は通過した地域で多くの人を虐殺した。この時、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ無く、死体のため河が堰き止められたと言われるほどの惨状であったといわれる。この虐殺によって曹操は非常に評価を落とし、後世三国志の注釈を編んだ裴松之も批判しているほどである。同年秋、曹操が飛蝗(イナゴ)のために兵糧を失い、徐州の侵攻を切り上げて帰還した。ところが、親友の張邈が軍師の陳宮と謀って呂布を迎え入れており、領地である兗州の大半は呂布のものとなっていた。張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われる度に張邈を庇っていたが、張邈の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。幸い荀彧・程昱・夏侯惇らが本拠地を守り抜き、イナゴのために呂布も軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。しかしこの戦いで青州兵は大打撃を受け、曹操自身も大火傷を負った。このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。興平2年(195年)春、定陶郡を攻撃。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。同年夏には鉅野を攻めて薛蘭・李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、弟の張超を攻撃する。同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。建安元年(196年)頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。そこで、董昭の策略を用いて、献帝を許昌に迎え入れた。建安2年(197年)春、宛に張繍を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繍の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繍が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繍に先制され、敗れる。この敗戦で長男の曹昂・忠臣の典韋を失った。建安3年(198年)、張繍を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繍を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年冬、呂布を攻める。呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させた。建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繍は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。建安5年(200年)に官渡の戦いで最大の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。建安9年(204年)、袁氏の本拠である鄴(現在の河北省臨漳(りんしょう))を攻め落とし、ここに本拠地を移す。建安12年(207年)、袁氏に味方する烏丸(うがん)族を討ち、袁氏一族を滅ぼした。曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表、江東の孫権、益州の劉璋、漢中の五斗米道、関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。曹操は三公制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。建安13年(208年)冬、曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉琮を降し、長江を下って孫権領へ攻め込もうとした。だが孫権軍の周瑜の部将の黄蓋の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めに遭い、疫病に悩まされていたことも重なり、撤退を余儀なくされた(赤壁の戦い)。建安16年(211年)、馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国という形で魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う形であった曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。建安20年(215年)、漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。その後、数年間にわたり益州を制圧した劉備軍と曹操軍は漢中周辺で激戦を繰り広げた。建安24年(219年)、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ(定軍山の戦い)、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退し、漢中を劉備に奪われた。建安25年(220年)、病(偏頭痛が原因とも)のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。

反応