曹植子建そうしょくしけん

曹植子建そうしょくしけん

陳の思王曹植、字を子建といい、沛国譙県の人である。父は曹操、同母の兄は曹丕、曹彰、弟は曹熊、異母の兄は曹昂、曹鑠、子は曹苗、曹志らがいる。年十歳余りで、『詩経』『論語』および『楚辞』漢賊数十万字を郎誦し、文章をつづるのが上手だった。曹操はあるときその文章を見て、曹植に向かていった、「おまえは人に頼んだのか。」曹植はひざまずいていった、「言葉が口をついて出れば議論となり、筆をおろせば文章となります。どうか目の前でためしてください。どうして人に頼みましょうか。」そのとき、鄴の銅爵台が新しく完成し、太祖は子供たち全部をつれて台に登り、それぞれ賦を作らせた。曹植は筆をとるとたちまち作り上げたが、りっぱなものだった。曹操はたいそう彼のすぐれた才能に感心した。性質はおおまかで細かいことにこだわらず威儀をととのえず、車馬装飾は華美をとうとばなかった。進み出てめどおりし、むずかしい質問をされたとき、質問の声に応じて応えるのがつねで特別寵愛された。211年、平原候にとりたてられ、214年、臨菑侯に国がえされた。曹操は孫権を征討するとき、曹植を鄴に留め守備させたが、彼をいましめていった、「わしが昔、頓邸の令となったのは、年23のときであった。そのときやったことを思い出しても、今後悔することはない。今おまえの年も23である。頑張らないわけにはゆくまいぞ。」曹植は才能によって特別に評価されたうえに、丁儀・丁廙 ・楊修らが彼の羽翼となって助けた。曹操は考えあぐね、太子となりかけたことが何度かあった。ところが曹植は生地のままにふるまい、自己を飾った努力したりせず、飲酒にも節度がなかった。曹丕は手だてを論じて自己を統御し、感情を矯め自分を飾った。官女や側近はいずれも彼の味方をして進言したため、けっきょく世継ぎとなることに決定した。217年、領邑五千戸を加増され、前とあわせて一万戸となった。曹植はあるとき車に乗って天子の専用道路を通り、司馬門を開いて外にでた。曹操はたいそう腹を立て、公車令はそのかどで死刑に処せられた。このことから諸侯に対するおきてと禁令は重くなった。そして曹植への寵愛も日に日におとろえた。曹操はすでにいつかおこるかもしれぬ変事を考慮し、楊修がたいへん才略をもっているうえに袁氏の甥であったことを考えた結果、罪をかぶせて楊修を処刑した。曹植はますます内心おちつかなかった。221年、曹仁が関羽に包囲された。曹操は曹植を南中郎将とし、征慮将軍を兼務させ、曹仁を救援させようと思い、呼び出して訓戒することがあった。曹植は酔っ払っていて命令を受けることができなかった。そのため曹操は後悔してそれをとりやめた。陰澹の『魏紀』に載せる曹植の賦にいう、「明らかなる后に従って嬉しみ遊び、層なれる台にのぼりて情を娯しましむ。太いなる府の広く開くを見、聖き徳の営む所を観る。高き門の嵯峨としてそびゆるを建て双闕を太清に浮かばす。中天に華わしき観を立て、飛ぶ閣を西の城に連ぬ。漳水の長き流れに臨み、園果の滋れる栄を望む。春風の和ぎ穆らぐを仰ぎ、百鳥の悲しみを鳴くを聴く。天の雲は其の既に立てるを垣り、家の願いは得てほしいままにするを獲。仁の化を宇の内に揚げ、粛恭を上京に尽くす。惟うに桓・文の盛んなるも、豈聖明に方ぶるに足らんや。休わしきかな美しきかな。恵沢は遠く揚がる。わが皇家を翼さ佐け、彼の四方を寧んず。天地の規量に同じく、日月の暉光に斉し。永く貴尊して極まり無く、年寿を東の王に等しくす」伝々。曹操はそれをたいそう見事だと感心した。『魏武故事』に載せる布令にいう、「最初は、子供のなかでももっとも大事を決定することができる者は子建だと思いこんでいた。」また布令にいう、「臨葘候植がかってに外に出、司馬門を開いて金馬門まで行ってから、わしに別の目でこの子を見させることになった。」また布令にいう、「諸侯の長史と帳下の吏は、わしが殿外に出るときいつも諸侯をひきつれて行く意味が分かっているのだろうか。子建がかってに司馬門を開いて以来、わしはまったくもう諸侯を信じられなくなった。おそらくわしが出かけているあいだに、すぐまたかってに出るだろう。だからいっしょにつれて行くのだ。まったくわしをして誰を腹心とすべきか信じられなくさせたのだ。」曹丕は王位につくと、丁儀・丁廙を処刑すると同時にその一族の男性を殺した。曹植は諸侯とともに領国に赴いた。221年、監国謁者の灌均は天子のおぼしめしに迎合し、「植は酒に酔いますと粗暴傲慢、お使者を脅迫いたしました」と上奏した。所管の役人は処罰したが、曹丕は太后に対する顧慮から、安郷候に格下げした。その年、鄄城候に改封された。222年、曹植は、鄄城王に建てられた。領邑は二千五百戸だった。『魏書』に詔勅を記載する、「植は、朕と母を同じくする弟である。朕は天下のあらゆるものを包囲するものである。まして植のことだ。骨肉の親は、ゆるして処刑しないものだ。よって植を国がえさせる。」223年、曹植は、雍丘王に国がえされた。その年、首都に参内した。上奏文にいう、「臣は罪を背負って領国に帰ってからは、肌を刻み骨を刻むまで、罪とがを思い起こしまして、ま昼になって食事をとり、夜半になって寝につくというありさまです。実際、天網には二度とかかってはならず、聖恩はもう一度期待することはむずかしいからです。ひそかに『相鼠』の篇、礼が無ければ速く死ねという内容に心を動かされ、肉体と影は互いに慰めあい、五つの感情から申しても赤面するほどのはずかしさを感じております。罪を思って生命を棄てますれば、古えの賢者の『夕べには改めよ』との勧告に反することになり、たえしのんで生き、いたずらにながらえれば、詩人の『何の顔ある』との非難を犯すことになります。伏して思いますに、陛下のおん徳は天地に範をとられ、ご恩は父母よりも高く、めぐみは春の風よりものびやかに、なさけは時宜にあった雨のようでございます。これこそ荊棘を差別せず雨を降らすのは、めでたき雲の恵みであり、七匹の子が平等に養育されるのは、鳲鳩の愛情であり、罪をゆるして功績を求めるのは、明君の行為であり、愚かさをあわれみ才能をめでるのは、慈愛ふかき父親の恩ということになります。だからこそ愚かな臣は恩愛の沢にたちもとおり、自分を棄て去ることができないでいるのです。先に詔書をいただき、臣どもは朝廷に参内することを絶たれ、心は隔てられ志は切り離されまして、老齢になっても二度と珪を手に持つ望みがなくなったことに、みずから甘んじておりました。思いがけなくも、とうとう詔にて曲げてお召しのおぼしめしをお示しくださいました。到着の日より、心はみくるまのもとに駐せておりましたが、西の館に偏僻な暮らし、まだ官中に参上いたしませず、はずむ気持を抱いたまま、仰ぎおしたいしておちつきません。つつしんで上奏文をたてまつり、詩二篇を献上いたします。その詞は次のとおりです。『ああうるわしき顕考は、時れ惟れ武皇なり。命を天に受け、四方を寧んじ済う。朱き旗の払う所、九土はなびきしりぞく。玄化はさかんに流れ、荒服は来たり王く。商を超え周を越え、唐と跡を比ぶ。篤き生れの我が皇は、世のつぎて総を載す。武は則ち粛しく烈しく、文は則ち時れやわらぐ。禅を炎漢より受け、万の邦に臨み君む。万の邦は既に化し、旧き則に率い由る。広くうるわしき親の命じ、以て王国を藩らしむ。帝曰わく爾候よ、この青土に君とし、海浜を奄いに有たしめ、周の魯におけるに方ぶ。車と服は輝き有り、旗と章は叙有り。済済たる儁乂は、我が弼け我が輔け、と。伊れ我が小子は、寵を恃みて驕りたかぶり、時の網に挙挂り、国の経を動乱す。藩と作りかきと作るも、先の軌を是れ堕ち、我が皇の使いに傲り、我が朝の儀を犯す。国に典刑有り、我は削られ我はしりぞけられ、将に理におかれ、元兇是れ率わんとす。明明たる天子は、時れ同類に篤し。我が刑し、之を朝市に暴すに忍びず、彼の憲を執るひとに違いて、予が小子を哀れむ。改めて兗の邑に封じられ、河の浜にゆく。股肱は置かず、君有りて臣無し。荒淫のきず、誰か予が身をたすけん。煢煢たる僕夫は、彼の冀の方にゆく。ああ予が小子、乃ちこの殃に罹る。赫赫ける天子、恩は物を遺てず、我に玄き冕を冠せ、我に朱きひもを要ばしむ。朱きひもは光き大きくして、我をして栄華ならしめ、符を剖ち玉を授け、王爵是れ加えたもう。仰ぎて金璽のひとに歯び、俯して聖策を執る。つつしみて承けおそれる。ああ我が小子は、頑凶是れまとい、逝きては陵墓にはじ、存らえては闕廷にはず。敢えて特に傲るぶあらず、実に恩を是れたのむなり。威霊は改めて加えられ、以て歯を没するに足りる。おおいなる点は極まりなく、性命は図られず、常におそるはつまずきて、罪をよみじに抱くことなり。願わくば矢石を蒙り、旗を東岳に建てんことを。庶わくば毫釐を立て、微功もて自ら贖わんことを。身を危うくし命を授け、足るを知りて戻を免れ、甘んじて江・湘に赴き、戈を呉・越に奮わん。天は其の衷を啓き、京畿に会するを徳。聖顔を奉ずることの遅きに、渇くが如く餓えるが如し。心のここに慕うは、いたましく其れ悲し。天は高きも卑きに聴く、皇よ肯えて微を照らせ。』また次のとおりです、『粛しみて名詔を承け、皇都に会するに応じず。星陳なりて夙に駕し、馬に秣かい車の脂をさす。彼の掌徒に命じ、我が征旅を粛しむ。朝に鑾台を発し、夕べに蘭渚に宿す。芒芒とひろき高原と湿地にききとしておおき士と女あり。彼の公田を経、我がしょくしょを楽しむ。ここにまがれる木有り、重なれる陰あるも息わず。弁当有りといえども、飢えながら食らうにいとまあらず。城を望めど過ぎらず、邑に面えども遊ばず。僕夫は策もち警め、平なる路に是れ由る。玄き駟は藹藹としてさかんに、くつわを揚げ沫を漂わす。流れる風はくびきを翼け、軽き雲は蓋を承く。澗の浜を渉り、山の隈に緑い、彼の河のきしに遵い、黄阪是れ階る。西のかた関と谷を済り、或いは降り或いは升る。ひさん(四頭だての外側の二頭)は路に倦み、再び寝ね再ぶ興く。将に聖き皇に朝せんとし、敢えてやすんじ寧んぜず。節をおさえて長くはせ、日を指してすみやかに征く。前駆はたいまつうぃ挙げ、後の乗は旗を抗ぐ。輪は運ることをやめず、すずは声を廃むる無し。ここに帝室にいたり、此の西のしろに税る。嘉き詔は未だ賜らざれば、朝覲するによしなし。仰ぎて城のしきみをみ、ふして闕廷を惟う。長く懐い永く慕い、憂える心はよえるが如し。』」曹丕はその文辞と内容を嘉し、思いやりのある詔をもって答え、彼を励ました。『魏略』にいう。それより以前、曹植はまだ関所に到着する前に、自分で過失があることを考え、曹丕に謝罪しなければならないと思った。そこでその侍従官を関東に留め置き、ただひとり二、三人をつれておしのびで旅行し、都に入って清河長公主に会い、公主をつてとして謝罪したいと思った。ところが関所の役人はそのことを言上したので、曹丕は人をやって彼を出迎えさせたが、会うことはできなかった。太后は自殺したと思いこみ、曹丕に向かって泣いた。ちょうどそのとき、曹植はむきだしの頭をして、鈇とその台を背負い、はだしで宮門の下に出頭した。曹丕と太后はうってかわって喜んだ。彼を目どおりさせたときに、曹丕はまだ厳しい顔つきをして彼と話もしないうえ、冠や履物をつけさせなかった。曹植は地に伏して涙を流し、太后はそのために不機嫌だった。詔勅を下してやっと王服に戻ることを許した。『魏氏春秋』にいう。この当時、諸国に対する処遇の法律はきびしかった。仁城王曹彰が突然逝去し、諸王は兄弟を思う悲痛な感情にとらえられた。曹植と白馬王の曹豹は帰国にあたって、帰路をともにして東に帰り、久闊の思いを述べあいたいと思ったが、監国使者はゆるさなかった。曹植は怒りにかられ、別れを告げたが、詩を作った、「帝に謁す承明盧、逝きて将に旧彊に帰らんとす。あしたに皇邑を発し、日夕に首陽を過ぐ。伊・洛はひろく且つ深く、済らんと欲するも川にはし無し。舟をうかべて洪いなるなみを越え、彼の東路の長きを怨む。回顧して城闕を恋い、領を引して情は内に痛む。大谷は何ぞうしろにしてひろき、山樹はしげりてそうそうたり。霖雨は我が塗を泥らせ、流れるあまずみは浩くして従横たり。中逵には絶えて軌無く、轍を改めて高き岡に登る。修き阪は雲と日に造り、我が馬は玄きに以て黄となる。玄黄るるもなおよく進むも、我が思いはうれえ以て紆る。うれえ紆れて将た何をか念う、親愛のひとは離居に在り。本もと相い与にともにせんと図りしに、中ごろともにすること克わざるに更めらる。ふくろうは衡軛に鳴き、やまいぬと狼は路のつじに当たる。あおばえは白をこぼちて黒とし、讒と功は親をしてそならしむ。還らんと欲するも絶えてみち無く、轡をとりてただたちもとおる。たちもとおりてまた何くにか留まらん、相い思うて終わり極まること無し。秋の風は微かなる涼たさを発し、寒の蝉は我が側に鳴く。原野は何ぞきびしき、白日はたちまち西に匿る。孤獣は走りて群を索め、草をふくむも食らうに遑あらず。帰鳥は高き林に赴き、翩翩として羽翼をふるう。物に感じては我が懐いを傷ましめ、心を撫でては長く歎息す。歎息してまた何をか為す、天命は我と違る。奈何せん曹彰を念うも、一たび住きて形帰らざるを。孤魂は故域を翔り、霊柩は京師に寄す。存する者は忽ちに復過ぎ、亡没すれば身自から衰う。人は生まれて一つの世に処るも、忽きこと朝露のかわくが如し。年は桑と楡の間に在り、影と響きは追う能わず。自ら顧みるに金石に非ず、咄咤心をして悲しましむ。心悲しみて我が神を動かすも、棄て置きて復陳ぶることなからん。丈夫の四海に志せば、万里も猶比隣のごとし。恩愛の苟くもかけずんば、遠きに在るも分は日びに親しむ。何ぞ必ずしもかけぶとんととばりを同にし、然る後殷勤のおもいを展べん。倉卒しきかな骨肉の情、能く苦辛を懐かざらんや。苦辛しみて何をか慮り思う、天命は信に疑う可し。虚無なり列仙を求むること、松子久しく吾れを欺けり。変故は斯須に在り、百年のいのちを誰か能く持たん。離別すれば永く会うこと無し、手を執るは将た何れの時ぞ。王よ其れ玉の体を愛しめ、倶に黄髪の期を享けん。なみだを収めて長き塗に即き、筆を援りて此れより辞せん。」225年、曹丕は東征し、帰途雍丘を訪れ、曹植の宮殿に行幸し、五百戸を加増した。226年、曹丕が崩御して太子の曹叡が即位した。227年、浚儀に国がえされた。228年、ふたたび雍丘に戻った。曹植はつねに有用な才能をもちながら腕をふるう場所がないことに、腹立ちと怨みをいだいていたので、上奏文をたてまつって自分をためして欲しいと請願した。「臣は聞いております。士がこの世に生まれ出たからには、入っては父につかえ、出ては君につかえるものだ、と。父につかえる場合には親に栄誉をもたらすことを尊び、君につける場合には国を盛んにすることを貴びます。したがって慈父も役に立たぬ子にめをかけるわけにはいかず、仁君も役に立たぬ臣を養うわけにはいかないのです。そもそも徳義を考えて官職をさずけるのは、功績を成し遂げる君主です。才能を計って爵位を受けるのは、使命を全うする臣下です。それゆえ君主は才能のない者に官を授けることなく、臣下は才能のないのに位を受けることはありません。才能のない者に授けるのを誤った起用といい、才能のないのに位を受けるのを屍に対する俸禄と申します。『詩経』の『素餐』の言葉が生まれる理由です。昔、虢仲・虢叔が東西二つの虢国への任命を辞退しなかったのは、彼らの徳義が厚かったからであり、周公と召公が、魯と燕の領土を辞退しなかったのは、彼らの功績が大きかったからです。今、臣は国の重き恩籠を受けて、今に至るまで三代を経過しております。いまし陛下の太平の時期に遭遇し、おんめぐみに浴し、徳の教化に浸っており、すばらしい幸福というべきであります。しかも東国で位をぬすみ、上級の爵にあり、身には軽く暖かな衣服をまとい、口はくさぐさの美味にあき、目は華麗な色彩を極め、耳は管絃のひびきにあきているのは、爵位が重く俸禄が厚い結果でございます。客観的に古代の爵位俸禄の授与を考えると、私の場合と異なっております。すべて功績・勤労によって国家に利益をもたらし、主君をたすけ人民に恩恵を与えた者に与えられています。今、臣は語るべき徳もなく、記すべき功もありません。このようにして一生終えるまで、国家朝廷に役立たないとなると、国風の作者が『彼の其の』と非難したのにひっかかりましょう。そのために、上を向けば玄の冕にきがひける思いをし、うつむけば朱い紐にはずかしい思いをするのです。現在、天下は統一され、九つの州は安定しております。しかしふり返って見ると、西方には命令に逆らう蜀が存在し、東方には臣下とならない呉が存在しており、国境地帯ではまだよろいを脱ぐことができず、策士もまだ枕を高くして寝ることができない状態でありまして、実際天が下を融合して太平のみ世を現出することが望まれております。だから啓は有コを滅ぼして夏の功業は明白となり、成王は殷・奄にうちかって周の徳義は顕著となったのです。今、陛下にはご聡明さをもって世を統辞されており、文王・武王による功業を全うされ、成王・康王による隆盛を受け継がれようとなされ、賢才を選び有能の者に官を授け、方叔・召虎ともいうべき臣下によって四方の国境を鎮圧統御されておりまして、国家の爪や牙に相当する武臣は、役にふさわしいといってよいでありましょう。しかしながら、空高く飛ぶ鳥はまだ軽やかないぐるみにかかってはおらず、淵深く沈む魚はまだ針の餌にぶらさがっておりませぬのは、おそらく針や射の技術があるいはまだ充分ではないからかと思われます。昔、耿弇は光武帝の到着を待たず、すばやく張歩を攻撃し、賊どもを主君のために残しておいてやらぬと申しました。だからこそ、車の右の陪乗者は轂のきしむ音に責任を感じて自殺し、雍門は斉の国境において首をはねました。この二人の人物は、いったい生をにくみ死をとうとんだのでしょうか。実際は彼らが主君をおろそかにしあなどった結果にいらだちをおぼえたからです。そもそも君主の寵臣は、災害を除去し利益をもたらそうとするものです。臣下が主君につかえる場合、必ずわが身を殺して乱をしずめ、功績をあげて主君にお報いします。昔、賈誼は二十歳で、属国都尉の官に試してもらいたいと願い、匈奴の単于の首に縄をかけてその命を制したいと申し出ました。終軍は若年ながら南越に使者として出向き、長いひもを頂戴してその王を拘束し、北のご門まで引っ張ってきたいと考えました。この二人の臣は、いったい主君に向かて大言し世間にもてはやされることを好んだのでしょうか。心に鬱結するものがあり、その才能・力量を思う存分発揮して明君のためにはたらこうと思ったのです。昔、前漢の武帝が霍去病のために邸宅を建てたとき、彼は辞退して『匈奴がまだ滅びないのに、臣にとって家など問題外です』と申しました。そもそも国家を憂え家庭を忘れ、わが身を捨てて危難を救うのは、忠臣の希望です。今、臣は外におりますが、厚遇を受けていないわけではありません。それなのに寝てはふとんにおちつかず、食って味わう余裕のないのは、心底より西と南の二方面でまだ勝利を収めていないことが気にかかっているからでございます。つつしんで、故武皇帝の武臣や老練な将軍を拝察しますに、年をとったりみまかったりした者があると伝えられております。賢才は世の中に少なくないとは申しながら、老練は将軍、古い兵卒は戦争に習熟いたしております。ひそかに、自分の力量も考えず、命をささげることをこころざし、毛すじほどの功績を立て、お受けしておりますご恩に報いたいと願っております。もし陛下には稀有の詔勅を出され、臣に刀のきっ先ほどのわずかなはたらきをささげることをお認め下さいますならば、西方の大将軍に所属せしめ一校尉の部隊を担当させるか、東方の大司馬に所属せしめ一艘の舟の統率をまかせるか、お命じください。さすれば必ず危険をふみこえ、舟を走らせ黒馬をいさませ、刃の鋒先をかいくぐり、士卒の先頭をきるでありましょう。孫権をとらえ諸葛亮の首をとることができるまでには至らないでありましょうが、願わくばその勇将をとりこにし、その悪人ばらを殲滅し、必ずやその場の勝利をたてまつり、終生の恥をそそぎ、姓名が史官の筆によって記され、功業が朝廷の記録に書かれるよう努力いたします。わが身が蜀の国境にばらばらとなり、わが首が呉の宮門にかけられましょうとも、かえって生命を得た時のような喜びを覚えましょう。もし小さな才能がためされず、一生を終っても世の中に名声が伝わらなかったならば、いたずらにその身が出世しその体がぜいたくを味わっても、生きているときは政治に役だたず、死んで人口が減ったことにはなりません。むなしく高い位をお受けし重い俸禄をかたじけなくして、小鳥が休憩をとったりあたりを見廻りしているような生活を送り、白髪頭で一生を終わるのは、それこそただおりの中で動物として育てられるのと同じであって、臣の目的とすることではございません。東方への遠征軍が失敗し、軍勢はいささか損害を受けたと伝え聞きまして、食事をとることもせず、そでをはらい袵をけり、剣をなでて東方をみつめ、心はすでに呉の領土へと駐せております。臣は昔、故武皇帝のお供をして南方は赤岸まで行きつき、東方は青海原を前にし、西方は玉門を遠望し、北方は玄塞をこえました。軍隊を動かし戦いをする場合の状況を拝見いたしましたが、神のごとき美事さというべきでございました。もちろん戦争というのはあらかじめ語ることが不可能なもので、困難に臨んで状況の変化に自在に対応することが問題なのです。わが目的はこの明世に自己をささげ、聖代に功業をうち立てたいということにあります。歴史の書物を読むごとに、過去の忠臣・義士が短い命を投げ出して国家の危難に立ち向かい、身体は殺され引き裂かれても、功業の記録が鼎や鍾に刻みつけられ、名声と称賛が書物に残されているのを見まして、胸をかきむしって歎息しないではおれませんでした。臣は、明君が臣下を使う場合、罪ある者を捨てない、と聞いております。だから、逃走し敗北した将軍を起用して、秦と魯はその成功をかち得ました。冠のひもを引きちぎられた臣、馬を盗んだ臣を許して、楚と趙はその危難を救われました。臣はひそかに先帝が早く崩御され、威王がこの世を棄てられたことに心を動かされております。臣だけが特別の人間だとして、永久の生命にたえられるわけではありません。朝の露に先んじて、溝か谷に埋められ、憤墓の土がまだ乾かぬうちに、身も名もともに消滅することを常に心配しております。臣は聞いております。駿馬が長い鳴声をたてると、伯楽はその能力をはっきりと見分け、盧という犬が悲しげにさけぶと、韓国はその才能を知ったとか。だからこそ、斉や楚への遠き道に使うことによって千里を行く能力を充分に発揮させ、ずるがしこい兎の追跡にためすことによって、格闘しかみつくはたらきを証拠だてられたのです。今、臣は犬や馬と同じわずかな功績を目的としておりますが、ひそかに自分で忖度しますに、全く伯楽や韓国のように起用してくれる人がございません。そのゆえにむせびなき、ひそかに自分で心を痛ませているのです。だいたい賭博の場に臨んでつま先立ち、音楽を聞いて知らずに拍子をとるのは、音楽を理解し、賭博の術をわきまえているからでありましょう。昔、毛遂は趙の国の臣下の奴隷でありましたが、それでもふくろの中にある錐がふくろの底を突き破るという比喩を借りて、主君を語らせ功績を立てました。まして堂々たる大魏の、人物豊富な朝廷において、どうして梗概の気をもち危難に身を投げ出す臣下が存在しないことがありましょうや。だいたい自分を宣伝し売り込むのは、男にとっても女にとっても醜悪な行為です。時世ぜに迎合して出世を求めるのは、道家のはっきりと嫌悪することです。それなのに、臣が陛下に陳情いたしましたのは、実際、国家と肉体を分けあい呼吸を同じくし、憂いを共にしている者だからです。願いは麈や霧の微小さをもって山や海の広大さを補益し、小さい燭の末端の光をもって日月の輝きを増大することです。それゆえにあえてその醜悪な行為をおかしてこの忠誠をささげる次第です。」『魏略』にいう。曹植はこの上奏文をたてまつったけれども、なお疑われて起用されなかった。そのためにいう、「そもそも人間が生を尊重するのは、安楽な生活を送り、美麗な衣服を身につけて寿命をまっとうすることを尊重するからではない。尊重するのは、その天に代わって物をおさめる点にあるのである。そもそも爵位俸禄とは、虚勢を張るためのものではなく、功績がないのに爵位が高く、徳行がないのに俸禄が重いのは、ある種の人にとって栄誉と考えられているが、ますらおにとっては恥辱と考えられるのだ。それゆえに、最高の行為は徳行をうち立てることであり、その次の行為は功績をうち立てることである。つまり功績・徳行というのは姓名を後世に残す手段である。姓名が消滅しないことは男の目的とすることである。だから、孔子には『夕べに死ぬ』ば夕べに死すとも可なりの論があり、孟軻には『生を棄てる』我の欲する所也、義も亦我の欲する所也、二者兼ぬるを得べからざれば、生をすてて義をとるもの也のことわりがあるのだ。彼らは一人は聖人、一人は賢者であるが、どうして長生きを願わないことがあろう。そのような発言をするのは自己の抱負を実現できない恨みがあったからであろう。それだからこそ深く歎息してためされることを求め、功績を立てることを基したのである。ああ、私の主張はとりあげられなかった、後世の君子に私の気持を理解してもらいたいと望むものである。」229年、東阿に国がえされた。231年、ふたたび上奏して親戚を見まうことを要請し、ついでにその気持を述べた、「天がその高さをたたえられるのは、万物を覆うからであり、大地がその広さをたたえられるのは、万物を載せるからであり、日と月がその明るさをたたえられるのは、万物を照らすからであり、江と海がその大きさをたたえられるのは、万物を受け入れるからである、と臣は聞いております。それゆえ孔子は『大きいことよ、堯の君主としてのあり方は。ただ天のみが大きいが、堯こそはそれを規範した』といっております。そもそも天のもつ徳は、万っ物に対して広大無辺といってよいでありましょう。だいたい堯の行なった教化は、親しい者から手をつけ疎い者へと向かい、近いところから始まって遠い所へと及ぼしてゆくものでした。その『伝』に『よくすぐれた徳をもつ人物を識別し、よって九族を親和させ、九族がむつみあったのち、百官に平和をもたらし徳義を明らかにする』ともうしております。周の文王になるとまたその教化を尊重しました。その『詩経』に『正妻を礼法をもって扱い、兄弟に及ぼし、よって家と国を治める』といっております。だからこそ、やわらぎ、むつみあい、詩人はそれを歌ったのです。昔、周公は管公・葬公が心をあわせなかったことをいたみ、広く親類を列侯にとりたてて、王室のまもりとしました。『伝』に『周の宗盟は、異姓の諸侯を後から盟わせた』といっております。まことに骨肉の恩恵は、仲たがいしてもたちきれず、親類を愛するという道義は、実に誠実さを基としております。かかる道義をもちながらその主君をないがしろにし、仁愛をもちながらその親をすてたものは存在いたしません。伏しておもんみまするに、陛下には堯帝の敬虔・聡明の徳を資質とされ、文王のつつしみぶかい仁愛を体得され、恵みは後官にゆきわたり、恩は九族にまであきらかであります。諸侯百官は順序に従って休暇をとり交替で出仕いたしますから、政治は朝廷においてすたれることのない一方、故人の欲求を私邸でのばすことができ、親類間の愛情をかよわせ慶弔の気持を尽くすことが可能です。まことにわが身にあてはめて人を扱い、恵みを垂れ恩を施しているといってよいでありましょう。臣はと申しますと、人間の道のいとぐちさえ断ちきられ、よき時代に参内も許されませず、ひそかにわが身をいたんでいるありさまです。あえて、心の通じあう友と交わり、人間関係を結び、人の道を述べたいと過分な望みを抱いているわけではありません。近ごろはとにかく姻戚とも行き来がとだえ、兄弟とも完全に連絡が断たれまして、吉凶についての問い合わせもとざされ、慶弔に関する礼もすたれております。恩恵のむすびつきからきりはなされている点は、路傍の人よりもひどく、隔絶されている点は、胡と越の場合よりもはなはだしいのです。今臣は一時的な制度のために、永久に参内する希望を絶たれておりますが、心は皇居に注がれ、思いは御所へと連なっているという天では神がそれをご存知であられます。しかしながら『天が実際これを行なったのであって、何といってもしかたがない』のですが、退いて諸王のことを思い出しますと、『みうちと親しみあいともに近づきあう』という気持がいつもわいてまいります。どうか陛下にはおんめぐみを垂れて、詔を出したまい、諸国に対して慶弔の見舞いと四季の挨拶をのべることをお許しくださいまして、骨肉の間の楽しい情愛を述べ、喜びにあふれた厚い友誼をまっとうし、紀妾の家に対して、紅おしろいなどの残り物を毎年二回送ることができるようにしてくださり、ご外戚に対する場合と同じたてまえ、百官に対する場合と等しい恩恵を賜りますよう、お願いいたします。以上のようでありますれば、古えの人が感歎したこと『詩経』によまれていることが、聖代に復活することになりましょう。臣はつつしんでみずからをかえりみまするに、刀のきっさきほどのはたらきもございませんが、陛下の抜擢して任命される人物を観察いたしますと、もし人が異姓であったならば、ひそかに自分の力量を考慮いたしまして、朝廷の人たちに遅れをとらないと存じております。もし、遠遊冠を辞退し、武弁を載き、朱の組を解き、青の紐をおび、駙馬都尉か奉車都尉のどれか一つの称号をたちまちのうちにかち得まして、みやこに住居をかまえ、あるいは筆をさしはさみ、みやこの外ではみくるまのお供をし、内ではみくるまの側に侍り、ご下門にお答えし、お側近くでお役に立つことができればと存じます。それは臣のまごころからの希望でございまして、夢にも離れない思いでございます。はるかに『鹿鳴』の君臣の宴を慕い、次いで『棠棣』の他人ではないといういましめをうたい、さらには『伐木』の友生の義を思い、最後に『 蓼莪』の果てしなき哀しみを胸にいただきます。四季の会合でも、つねにぽつりとひとりおり、左右にいるのはただ下僕だけ、向かい合っているのはただ妻子だけでありまして、高尚な話も語るべき相手がなく、真理を見出しても述べるべき相手がございませず、いつも音楽を聞いては胸をさすり、祝杯を酒杯を前にしては歎息をついているのです。臣は、犬や馬のまごころは人を感動させることができず、人間のまごころは天を感動させることができないと考えておりましたが、城が崩れ、霜がおりた話を聞いて、臣ははじめてそのことを信じました。しかし臣の心をもってひきくらべてみますと、ただのでたらめの話にすぎぬように思われます。ひまわりが葉をめぐらす場合、太陽がひまわりのために光の向きを変えなくても、その方向を向きますのは、まごころがあるからです。ひそかに自分をひまわりになぞらえておりますが、天地のもつ恩恵を降ろされ、日月星のもつ光をそそいでくださるのは、実際陛下のみ心にまかされているのです。臣は『文子』に、『福のきっかけをつくらず、禍の口火をきらない』とあると聞いております。現在の隔絶されている状態について、兄弟同じ憂いを抱いておりますのに、臣ひとりが言い出しましたのは、聖きみ世に恩恵を浴さない人間が存在することを、心中願わないからでございます。恩恵に浴さない人間が存在すれば、必ずきわめてみじめな思いを抱いているに違いありません。それゆえに『柏舟』に『天なるに』という怨みの言葉があり、『谷風』に『予を棄つ』というなげきがあるのです。それゆえに、伊尹はその君が堯・舜とならないのを恥と考え、『孟子』は『舜が堯に仕えたやりかたで主君に仕えない者は、その主君を尊敬しない者である』というのです。臣の愚昧さは当然舜や伊尹と異なりますが、陛下が、四方をおおいつくし庶民をむつませるりっぱな政治を施かれ、輝きわたる明白なおん徳をひろめられることを望んでいる点につきましては、それこそ臣のまごころからの願いでありまして、心中ひそかに保持し、実際、鶴のごとく首を伸ばしつま先立って待ち望んでいることであります。思い切ってまた言上いたしましたのは、陛下があるいは天与の聡明さを発揮され、神のごとき視聴を傾けてくださることを期待しているからでございます。」詔勅によって答えられた、「だいたい教化の経過にはそれぞれ盛衰があるものだ。すべて初めがよくて終わりが悪いわけではなく、状況がそうさせるのである。それゆえに、誠実敦厚で仁愛が草木にまで行きわたると『行葦』の詩が作られ、恩沢が衰え薄れ、九族に親しまないと、『角与』の篇が諷刺することになるのである。いま、諸国兄弟の間で情愛の交換がおろそかになり、妃妾の家への紅おしろいの贈与が疎略になる結果を招いたのは、朕がこの問題を放置して、ここからの友愛と親睦の情を発揮できなくさせていたからであり、王の過去を援用し道理を説明した言葉に充分に示されている。どうしてまごころが心を動かし通じさせることができぬなどというのだ。そもそも貴賤の区別を明らかにし、親族に親しむ気持を高め、すぐれた人物を礼遇し、老若を秩序立てることは、国政の基本である。本来諸国間の通交を禁止する詔勅は存在しないのだ。曲がったことを直くするあまりゆきすぎがあったについては、下っぱ役人がとがめをおそれてそのような状態を招いたにすぎぬ。すでに所管の役人に命令し、王の訴えたとおりにした。」曹植はふたたび上奏文をたてまつって官吏起用を審査して行うべきことを述べた。「臣が聞きますに、天と地が精気をあわせて万物は生まれ、君と臣が徳義を合してすべての政治は完成する、五帝の時代は皆が皆智者であったわけでなく、三代の末期は皆が皆愚者であったわけではない、用いるのと用いないのと、知るのと知らないのとに原因がある、とのことです。過去の時代に賢人を推挙するという形式は具わりながら、賢人を獲得したという実績がなかったのは、各人がその仲間を引きたてて推薦したからにちがいありません。諺に『大臣の家には大臣が生れ、将軍の家には将軍が生れる』と申します。そもそも大臣というのは文徳の明らかな人物のことであり、将軍というのは武功のいちじるしい人物のことです。文徳が明らかであれば、国家・朝廷を正し、平安な社会を現出することが可能で、稷・契・キ・龍がそれに当たります。武功がいちじるしければ、不服従の物を征伐し、四方の蛮族に威光を示すという成果をあげ、南仲・方叔がそれに当たります。昔伊尹は女のつきびとでありまして、きわめて低い身分でしたし、呂尚は屠殺や魚釣りを仕事としていまして、きわめて賤しい身分でした。彼らが殷の湯王、周の文王に起用されたのは、まことに道義・理想が合致し、深い策謀が相い通じていたからでして、いったい近習の臣の推薦や左右の臣の仲介に頼る必要があったでしょうか。『尚書』に『不世出の君主がおれば、必ず不世出の臣下を起用することができる。不世出の臣下を起用すれば、必ず不世出の功業を立てることができる』といいますが、殷・周の二王はそれに当たります。せかせかと小またで歩き、常例にとらわれ古い慣習を固守するような人物を、どうして陛下のためにとりなす必要がありましょうか。いうまでもないことですが、陰陽の気が調和せず、日月星三つの光が照りわたらず、官職が空白で人物がおらず、もろもろの政治がきっちり整わないのは、三司の責任です。国境地帯が騒がしく、辺境には侵入があり、軍を全滅させ兵を失い、戦闘がやまないことについては、国境を守る将軍が心を配ることです。いったいむなしく国の恩寵をうけているだけでその任務にふさわしくないことがゆるされましょうか。当然、任務が高くなればなるほど、負担はいよいよ重くなり、官位が高くなればなるほど、責任はいよいよ深くなるのです。『尚書』に『もろもろの官を空白にしてはならぬ』といい、『詩経』に『職めて其の憂いを思え』とあるのは、それこそその意味であります。陛下には天然なままのすぐれた聖徳を具えられ、、帝位に登られて王統を継がれましたのちは、『康き哉』の歌を聞かれることを願い、武力を行使せず文徳を施すというりっぱな政治を心がけておられます。ところが数年このかた、時節はずれの水害早害にみまわれ、人民は衣食に苦しみ、軍隊の微発は、年々増加しておりますうえに、東方では敗北の軍があり、西方では戦没の将がありまして、蚌蛤が淮水・泗水を泳ぎまわり、むささびが林木でさわぎたてる状況を招いております。臣はこのことを思い出すたびに、いつも食事を中止して食物を払いのけ、酒杯を前にして腕をさすらないではおられません。昔、漢の曹丕は代の国を出発するとき、朝廷に変事がおこることを懸念しましたが、宋昌は『内には朱虚候・東牟候の親族がおられ、外には斉王・楚王・淮南王・琅邪王がおられます。それこそ盤石のご一族です。どうか王には疑いめされぬよう』と申しました。臣はつつしんで考えますに、陛下には遠くは周の文王に対する虢仲・虢叔の援助をご覧になり、中間の時代では周の成王に対する召公・畢公の輔佐を考えられ、下っては宋昌の磐石の固さという言葉を念頭に置かれますよう。昔、駿馬が呉の坂を登っているときは困苦したといってよいでしょうが、あの伯楽が見分け、孫郵が御しますと、身体を疲労させずに、いながらにして千里を駐せたと申します。つまり伯楽は馬を統御することが上手で、明君は臣を統御することが上手であり、伯楽は千里に駐せ、明君は太平を招きます。まことに賢人を任命し能力者を使用することの明白な効果であります。もし朝廷が役人がりっぱであれば、すべての政治は国内でおさまり、武将が軍隊を動かせば、地方の困難な状況はおさえることができましょう。陛下には都城に悠々とお暮らしになれますのに、どうしてみくるまを動かされ、国境地帯で雨露にさらされたもうのですか。聞くところでは、羊のからだに虎の皮をかぶせましても、草をみれば喜び、やまいぬにあえばおののくとか。その皮が虎なのを忘れてしまうからです。今、将軍を置いても適任者でなければ、この話と似たことになります。それゆえに、諺に『行動する者は理解せず、理解する者は行動できないことが問題だ』と申すのです。昔、楽毅は趙に逃亡しましたが、心中燕を忘れず、廉頗は楚におりましても、趙の将軍となることを思いました。臣は動乱の世に生まれ、軍隊の中で成長し、またたびたび武皇帝より教育を受けました。つつしんで軍を動かし兵を用いる場合の真髄を見ますと、必ずしも孫子・呉子の兵法から取っているわけではないのに、それらと暗に合致しておりました。ひそかにそれを心中に理解いたし、いつも一度は朝臣として参内する身となり、金の御門をおし開き、玉のきざはしを踏み、職務をもった臣下の一員に列し、一刻の下問をたまわることができればと願っております。臣に一度胸に抱いていることを発散させ、心にたまっていることを述べさせていただきますれば、死んでも思い残すことはございません。鴻臚より下されました士卒・若者を微発する文章を開きますと、期日ははなはださし迫っております。また、豹の尾はすでに建てられ、戦車が馳駆していると聞きます。陛下にはふたたび玉体を労され、思慮をみだされようとしておられます。臣はほんとうに緊張のあまり、じっとしておれません。馬にむちうち車を御し、頭をほこりや露にまみれさせ、風后の奇策をとり、孫子・呉子の真髄を受けつぎ、卜商が孔子に啓発したことを追慕し、命を投げ出して先駆けし、みくるまの前で命をおえることができればと願っております。しかしながら、天は高く、おん耳は遠くにございましても、気持はお上に通じませず、いたずらにひとり青い雲を眺めて胸をさすり、高き天を仰いで歎息をつくばかりであります。屈原は『国に駿馬有るも乗るを知らず、焉んぞ皇皇として更に求む』と申しております。昔、管公・蔡公が処刑され追放されますと、周公・召公が大臣となり、叔魚が死刑におとされますと、叔向が国家を正しました。三監の罪は、臣自身がそれに該当いたします。周公・召公という輔佐は、求めれば必ずや近くにございます。りっぱなご一族、藩王の中に、必ずやこの起用にこたえる者がありましょう。それゆえに、伝に『周公の親しさがなければ、周公のやった事は行えない』と申すのです。どうか陛下には少し心を留められんことを。近代では漢氏が広く藩王を建てましたが、大きいのは数十の城を連ね、小さいのは生活のかてを得、祖先の祭をするだけでして、周が藩国を建て、五等級の爵位制度を作ったのには及びませぬ。扶蘇が始皇帝をいさめ、淳于越が周青臣を論難したごとき例は、時代の変化をわきまえていたといってよいでしょう。そもそも天下の人の耳に傾けさせ目を注がせるには、威光は下臣を恐れさせることができるのです。豪族が政治を握れば、親戚は問題とされなくなります。権力のある者は、ご一族でなくても必ず重きをなし、権勢の去った者は、ご一族であっても軽んじられます。つまり、斉を奪ったのは田氏であって呂の一族ではなく、晋を分割したのは趙氏・魏氏であって姫氏ではなかったのです。どうか陛下にはそのことをご考察ください。いやしくも、よい時にはその官位を占めますが、悪い時にはその災難から逃れるのが、異姓の臣です。国の安泰を望み、家の高貴を祈り、行きてはその栄誉を共にし、死ぬときはその災厄を同じくするのは、一族の臣です。今かえって一族がうとんじられて異姓が親しまれており、臣は心中とまどっております。臣が聞きますには、『孟子』に『君子は逆境にあればわが身を修めることに専念し、栄達すれば天下全体を善に導く』と述べているとか。現在、臣は陛下とともに氷をふみ火をこえ、山に登り澗を渡り、寒さ暑さ乾燥湿気、高所低地それらをいっしょに経験しました。どうして陛下を離れることができましょうか。憤慨にたえず上奏文をたてまつって気持を述べました。もしみ心にあわない点がございましたなら、とにかくこれを文庫におしまいくだされまして、すぐに破り棄てないでくださいますようお願いいたします。臣の死んだのちに、この事をあるいは思い出してくださるかもしれません。もし毛先ほどわずかでも聖意にかかることがございましたなら、これを朝堂にお出しくださり、過去について造詣の深い人物に、臣の上奏文の道理に合わない点を糾明させてくださいますようお願いいたします。かようにおはからいくだされば、臣の希望は満たされます。」曹叡はすぐにねんごろな文章で返答した。『魏略』にいう。こののち若者を大いに微発し、また諸国の人物を召集した。曹植は最近諸国の若者が微発されたばかりで、その残されたみなしごは幼弱であり、現存している人もいくたりもいないのにまたも召集を受けたことから、上奏文をたてまつって述べた、「臣が聞きますには、古代の聖天子は日や月とその明るさを等しくし、四季の変化と同じように信頼感があったとか。だからこそ、悪人を処刑する場合重すぎることはなく、善人を褒賞する場合軽すぎることはなく、恐ればはためくいかずちのごとく、喜べば時を得た雨のごとく、恩愛は中間で絶えることなく、相反する教令を二度出すことはありませんでした。このような態度で朝廷に臨みますから、臣下は死ぬべき場所をわきまえるのです。任務をになって万里の外におる場合、主君のさずけられた官職を認識し、自分の命を投げ出す場合を貫きまして、告げ口をするやからがありましても平然として懸念を抱こうとしなかったのは、つまり君臣が信頼しあっていた明白な証拠でございます。昔、章子が斉の将軍となったとき、謀叛したと彼が密告する者がおりましたが、威王は『そんなことはない』と申しました。側近の者が『王にはどうしてそれをはっきりご存知なのですか』というち、王は『章子は死んだ母を改葬する話があった。彼は死んだ父をあざむくことをしなかったのに、いったい生きている君にそむくはずがあろうか』と申したとか。これは君が臣を信頼した話です。昔、管仲は自身桓公を射ましたが、のちにとらえられて魯から護送車に載せられ、若者にひかれて斉に送られました。管仲は桓公が自分を起用するにちがいないと予測していましたから、魯が後悔するのを心配して、若者に『わしはおまえのためにかけ声をかけるから、おまえは唱和してくれ。声と声があったら走ってくれ』と申しました。その結果、管仲がかけ声をかけ、若者は走りながらそれに唱和し、一日に数百里を行き、しばらくして到着しました。到着すると斉で大臣になりましたが、これは臣が君を信頼した話です。人が最初に領地をたてまわりましたとき、辞令書に『植よ、この青や社を受けとり、東方に領地をもち、皇室の盾となり、魏の藩国となれ』とありました。そして与えられました百五十人の兵は、皆六十歳ほどの年で、仲には七十歳の者もおり、親衛の騎兵と御用係をあわせても二百余人でした。正直なところ年寄りではなく、すべて壮年の者だったとしても、不慮の事件に備え、見廻りや城の守りをするには、考えてみると自分を守るには不充分の数でした。まして全員老いぼれて腰が曲がり杖を引きずっていたのです。ところが名目は魏の東藩ということで、王室の盾とされていました。臣は心中われながら気がひけました。たとえ諸国に赴任し、その国に士人がおったとしましても、合わせて五百人を越えません。つつしみて考えますに、わが軍の増減には、何の関係もございません。領域の外が平定されない以上、どうしても兵を提供しなければならないとするならば、臣は指揮下の兵をひきい二倍の速度でかけつけ、夫婦は幼児を背負い、子弟は兵糧を懐にし、敵の鋒先や刀の刃を犯して、国難に徇じたいと願っております。これがどうして見習いの中の子どもを差し出す程度のことでしょうか。愚が実際涙をふりしぼって河の水をふやしても、はつか鼠が海の水をのみほすようなもので、朝廷に対しては全然得にも損にもならないのに、臣の家の暮らしにとってはたいへんな損傷があるのです。また臣どもの若者は前後三度にわたって送りだしまして、まともな人間はすでにいなくなっております。ただまだ七、八歳以上十六、七歳医科の子供が三十余人おります。今、指揮下の兵は皆、年老いておりまして、寝床に臥せり、かゆでなければ食べられず、視力もなくし、わずかに息をしている者が合計三十七人、病みつかれ風が吹くとふらふらし、こぶができ、めしい・耳しいとなっている者が二十三人です。ただ今ではこの子供たちの成長を待っております。身体の大きな者は宿直護衛に当たらせることができ、侵入者を防ぐには不充分ですが、こそどろの警戒にはなんとかなるでしょうし、小さいものは大きな仕事にはたえられないでしょうが、雑草を刈りとり、小鳥や雀を追い払ったり見張りをさせたりはできましょう。候人åを休ませれば一つの仕事がおろそかになり、一日狩猟をすれば多くの仕事が廃され、自身で努力しなければ仕事は行えません。つねに自身で関与し、下役人にまかせないよりしかたがありません。陛下の聖徳・仁愛は、恩情ある詔を三度下されまして、士人を藩国に与え、長期にわたって二度と微発されませんでした。ごりっぱな詔の下にあって、輝く太陽を仰ぐ思いがいたし、金石のごとき長久の恩に安んじ、明白なる神のごとき信義を確信し、はっきりと自己の生活を守り、天や地に対するがごとき感謝をもってまいりました。見習いの中の者をいずれも送らねばならにことに決まりまして、暗くなって真昼に闇が訪れた思いに、がっくりとしてどうしてよいかわかりません。つつしんで考えますに、陛下にはすでに人に百官の上に位置する爵位をくださり、藩国の任務につけられ、直属の臣を設けてくださり、屋敷の名は宮殿とし、憤墓の名は陵としてくださいましたが、高邁な暮らしや独自の生き方が許されないのでは、一般庶民と違いがありません。たとえば、柏成は野に耕すことを喜び、子仲は傭われて畑仕事をすることを楽しみました。よもぎで編んだ戸に茅の窓は原憲の住居、貧民街に住み一つのひょうたんの水ですましたのは顔回の暮らしでした。臣の才能をお役に立てていただけないので、つねに慨歎して彼ら先人たちと同じ願いを持ちつづけております。もし陛下には、臣が配下の兵を全部お返しし、官吏たちを免職し、監督官を省いていただき、印璽を解きふつをとき去ることをお許しくださいますならば、柏成と子仲の行いに従い、顔回と原憲の暮らしを営み、子臧のいおりに住まい、延陵の季子の家に暮らします。このようであれば、積極的には功業を成就することがなくとも、消極的には保持すべき生き方をもつことになり、わが身が死んだときにも、なお赤松子・王子喬となれます。しかしながら、つつしみて推察いたしますに、国家朝廷におかれては、臣がこのようにいたすことを絶対にご承知にならないでしょうから、当然ながら、世間のおきてに束縛され、俸禄・地位につなぎとめられ、くだくだした小さな憂いを抱き、やむことのないくさぐさの思いにとらわれるばかりで、どうしてのびのびと思いのままにふるまい、宇宙の外を遊びまわることができましょうや。臣の願望をおききとどけにならない以上、陛下には必ず身内に親しむことをとうとばれ、骨肉の温情あつく、白骨をもうるおされ、枯木にも花を咲かせることを望まれ、おそらく一貫したご仁徳を垂れたまい、以前のめぐみある詔勅にそったご承知を下したまわるものと思います。」かくて全員帰された。その年の冬、諸王に232年の正月に参内せよとの詔勅が下った。その二月、陳の四県をもって曹植を陳王にとりたてた。領邑は三千五百戸だった。曹植はつねに特別のめどおりを願って、ひとりだけで時政の問題を含めて議論にあずかりたいと思い、ためしに用いてくれることを念願していたが、結局その機会を得ることができなかった。帰国ののちは、がっかりして希望を失った。当時の法律制度において、藩国に対する処遇はきびしく、属官たちはすべて商人から劣等の才能の持主で、兵士は老残の者を支給し、多くても二百人の数を越えなかった。また、曹植は以前のとがめによって、事あるごとにさらにその半分を減らされ、11年間に三度、都をかえさせたれた。つねにあたふたとしていて楽しみもなく、けっきょく発病して逝去した。時に41歳であった。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。曹植は、逝去するまえ、遺言して質素な葬儀を命じた。末子の曹志が家を保全する君主の人がらであったため、彼を立てたいと願った。その昔、曹植は魚山に登り、東阿のまちをみおろしたとき、歎息をつきその地で死にたいと思い、かくてそこに憤墓をきずいた。子の曹志があとを継ぎ、済北王に国がえされた。景初年間の詔勅にいう「陳の思王は昔過失があったとはいえ、そののち自己の欲望にうちかち、行動を愼み、以前の欠陥を補った。そのうえ、若年より死ぬまで、書籍を手から離さなかったのは、まことに至難のことである。よって、黄初年間の上奏されたもろもろの植に対する罪状書、大臣以下の臣下の論議で、尚書・秘書・中書の三つの役所と大鴻臚に所蔵されているものをとり集め、すべてそれらを廃棄せよ。植が前後にわたって書きのこして賦・頌・詩・銘・雑論あわせて百余篤を収録し、副本を都の内外に所蔵せよ。」曹志は何度か加増を受け、前とあわせて九百九十戸となった。曹植はあるとき琴をつまびきそれにあわせて歌をうたった。その辞にいう「ああ此の転びゆく蓬、世に居るに何ぞ独り然るや。長く本根を去りて逝き、あさも夜もやすむこと無し。東西は七つのみちを経、南北は九つのみちを越ゆ。卒に回風の起るにあい、我がを吹きて雲間に入る。自ら天の路に終えんとおもうに、忽焉として沈き淵に下る。はやきたつまきは我がを接えて出す、故の彼の中田に帰す。当に南すべくして更に北し、東と謂えるに反って西す。とうとうとして当に何れにか依るべき、忽ち滅びて復存す。ひらひらとして八つの沢を周り、ふわふわとして五つの山を歴。流転して恒の処無し、誰か吾の苦しみなやみを知らんや。願わくわ中林の草と為り、秋に野火に随いてやかれん。ただれ滅ぶるは豈痛ましからざらんや、願わくは根ねと連ならん。」孫盛はいう。おかしなものだ、魏氏の封建制度は。先王朝の基範を考慮せず、藩屏とする方式を考えず、一族仲むつまじくする気風に反し、それは城壁であるというたてまえにそむくものである。漢初の封建の場合、権力が人君と同等であることもあった。意図したことではないが、時の勢いからそうなったのである。魏氏の諸侯は弊害を正そうとして極端に過ぎたのである。そのうえ、魏が漢に交替したのは、徳を積んだ結果ではなかったから、教化・恩沢がおとろえると、天地四方が統一されないうちに、枝や幹を切り落とし、一族以外の者に権力をゆだねた。そのありさまは枝葉がなくかがまった病める木と同じく、その危うさは膜の上に作られた巣のようであった。たちまちのうちにあとつぎが絶えたのは、点が滅ぼしたのではないのである。五等級の爵位制度は、永久不変の軌範である。六王朝の興亡については、曹冏がそれを詳しく論じている。曹植が曹丕に上奏文を奉ったときの例えについて、劉向の『説苑』にいう。越のよろい武者が斉に攻め寄せたとき、雍門狄はこの事件の責任をとって死ぬことを願い出た。斉王はいった、「太鼓やどらの音もまだ聞こえず、矢や石もまだいきかわず、飛び道具もまだかわされていないのに、子はどうして死にたがるのじゃ。人臣たるの礼をわきまえているのか。」雍門狄は答えて、「臣は次のことを聞いております。以前、王が狩場に猟に行かれたとき、左の轂がきしんで音をたてたので、車の右側にいる陪乗者がその責任をとって死ぬことを願いました。王は『子は何のために死ぬのじゃ』といわれると、陪乗者は『これがわが君に対して音をたてたためです』といい、王が『左の轂が音をたてたのは、それは工作官の責任じゃ。子にどんな責任がある』といわれますと、陪乗者は、『わたしは工作官の車を問題にしているのではなく、それがわが君に対して音をたてているのを問題にしているのです』と答え、けっきょく首をはねて死んだとか。そんなことがございましたか。」王、「そういうことがあった。」雍門狄、「今、越のよろい武者が攻め寄せ、わが君に対して音をたてている状況は、左の轂のきしみで死ななければならないとすれば、臣が越のよろい武者のことで死ぬのは当然でないでしょうか。」かくて首をはねて死んだ。その日、越の人は軍をひきあげ七十里退いて、いった、「斉王には雍門狄のごときすぐれた臣がおる。もしかしたら越の国家が存続しえなくされるかもしれぬ。」かくて帰国した。斉王は雍門狄を上卿の礼をもって葬った。臣、裴松之が考えるに、秦が敗軍の将を起用した事件は有名であるから注をつけない。魯仲連が燕の将軍に送った文章にいっている、「曹子は魯の将軍となり、三度戦って三度とも敗北し、五百里にわたる領土を失いました。先に曹子があとの計画を考えず、道義をたてに躊躇することなく、首をはねて死んだならば、やはり敗軍の将であることを免れなかったでしょう。曹子は三度の敗北という屈辱を棄て、退いて魯君のために考慮しました。桓公が天子のもとに参上し、諸侯を集めますと、曹子は一本の剣をたよりに、盟約の檀上で桓公の胸をひらき、顔色も変えず、語気も乱れませんでした。三度の戦いで失ったものを、一度にとり戻し、天下はふるえおののき、諸侯は驚愕し、威光は呉・越にまでひびくことになりました。」この二人のごときは、小さな潔癖さをおしとおして、小さな節義を実行するのが不可能だったわけではない。臣裴松之が考えるに、楚の荘王が、冠の紐をひきちぎられた罪を表沙汰にしなかった事件もまた有名であるから、書かない。秦の穆公に馬どろぼうをゆるした事件があるが、趙については聞かない。おそらく、秦もまた趙と同姓であるので、文字を高官して上文の「秦」の字と重なることをさけたのであろう。

反応