曹純子和そうじゅんしわ

曹純子和そうじゅんしわ

曹純、字を子和といい、沛国の人である。兄は曹仁、子は曹演がいる。十四歳のときに父をなくし、同母兄の曹仁とは別に暮らしていた。父の家督を受け継ぎ、富裕な財産を有し、召使いや食客は数百人にも達していたが、曹純は規律正しくこれらを監督し、筋道をはずさなかったので、郷里の人々はみな有能だと認めた。学問が好きで、学者を敬愛したため、多数の学者が彼のもとに身を寄せた。これによって、遠近の人々からこぞって称賛された。十八歳で黄門侍郎となり、二十歳のときに、曹操につき従って襄邑に赴き、そこで兵を募った。最初議郎として、司空軍事をあずかり、虎豹騎を率いて、曹操の南皮包囲網に参加した。袁譚が出撃してきたために、曹操の兵卒に多数の死者が出た。曹操は攻撃の手をゆるめようとしたが、曹純はこれを諌めて、激しく攻めたてるよう進言した。曹操は意見を取り入れ、かくて袁譚は敗北し、曹純は直属の騎兵隊を率いて、袁譚の首を斬った。北方の三郡を征伐した際、曹純配下の騎兵が単于のトウ頓を生け捕りにした。前後に渡る功績によって、曹純は高陵亭侯に封じられた。曹操のお供をして荊州征伐に赴き、劉備を長阪に追いつめ、劉備の二人の娘をとらえ、輜重を捕獲し、敗残の兵を手中に収めた。その後、進撃して江陵を占拠し降伏させた。曹操が烏林(赤壁)で敗北すると、お供をして帰還した。210年、曹純は若くして死去した。享年不明。曹純が指揮する虎豹騎は、みな天下の精鋭の士であって、百人の将校の中から隊長を任命することもあった。曹操は誰を指揮官にするか頭を悩ました。曹純が選ばれて隊長となり、よく部下をかわいがり、指図してたいそう彼らの心をつかんだ。曹純が死去するに及んで、担当役人が彼の後任を選ぶよう申し上げたところ、曹操は、「曹純ほどの者を、どうしてふたたび得られようか。わしが指揮官として適当でないとでもいうのか」といい、ついに自分で指揮をとり、後任を選ばなかった。曹純の生年は170年、174年などの説がある。小説『三国志演義』では、209年の南郡攻防戦で、周瑜と戦い大敗している。また、211年でも馬超との戦いでも曹操に従軍している設定となっている(史実では前年に病死している)。

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