有賀幸作

有賀 幸作(あるが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 – 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は[注釈 1]、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。

長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生まれた。父の作太郎は旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。1917年(大正6年)11月24日、海軍兵学校卒(45期、順位57/88)。二つ上の先輩に中沢佑が、同期には空母瑞鶴、大鳳の艦長を務めた菊池朝三や、軍令部第一部長を務めた富岡定俊、大和の艦長を務め後に第2艦隊参謀長となる森下信衛、坊の岬沖海戦で第二水雷戦隊司令官を務めた古村啓蔵などがいる。また、父・有賀作太郎は古村の海軍兵学校入学時の保証人でもあり、海軍兵学校に入る前から交流があった

実家の平野屋金物店は有賀の相続放棄後、弟の次郎が継ぐはずであったが、父、次郎、さらに三男の正次、妹のふさへが相次いで病死したため、名義上家督を継ぎ、金物店店主となってたが、実際は母親が一人で切り盛りしており、大和沈没時期には閉店していた。

初代神風型駆逐艦水無月(380トン)から経歴をスタートさせ、水雷戦隊の指揮官として経験を重ねた。1922年に戦艦長門の四番砲台長に任命されたが、規則のうるさい戦艦勤務に戸惑うこともあった。1923年大尉昇進、翌年1月27日に宮坂好子と結婚、10月に長男の正幸が誕生した。12月、峯風型駆逐艦秋風の水雷長に就任し、川内型軽巡洋艦神通の水雷長。この時美保関事件に遭遇し、水城圭次艦長の自決を経験した。1927年12月那珂の水雷長、1928年6月7日長女の良江が誕生、12月10日球磨型軽巡洋艦木曾の水雷長に転任する。1929年11月、若竹型駆逐艦夕顔の艦長に任ぜられ、初めて船の総責任者となった。航海長は当時の有賀を見て「これが駆逐艦乗りか」と感嘆した

渾名 エントツ男
生誕 1897年8月21日
日本 長野県上伊那郡朝日村
(現:上伊那郡辰野町)
死没 (1945-04-07) 1945年4月7日(47歳没)
日本 九州 坊ノ岬沖
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1917年 – 1945年
最終階級 海軍中将
墓所 見宗寺
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