朝比奈泰朝

朝比奈泰朝

今川家の重臣で遠江国掛川城主。おもな官位は備中守、左京亮。父・朝比奈泰能の死後に家督を相続、1560年の今川義元による尾張侵攻にも従軍し、織田方の鷲津砦を攻略した。だが、同じ頃、桶狭間において主君・義元が織田信長によって討たれたため泰朝は撤退を余儀なくされた。義元の死後、今川氏領内では動揺が激しく離反者が続出したが、泰朝は義元の子・氏真を支え続け今川氏への忠節を貫いた。1568年に甲斐の武田信玄が駿河に侵攻したため氏真が駿河を追われると泰朝はこれを掛川城に迎え保護した。さらに同年、三河の徳川家康が遠江に侵攻、掛川城は徳川軍に包囲されてしまった。この窮地にあっても泰朝は氏真を守り、5か月にもわたって奮戦した。だが、1569年、掛川城はついに開城、泰朝は氏真を奉じて伊豆へ退去することとなった。その後、氏真は北条氏の庇護下に入ったが、泰朝については諸説あり不明。徳川家康の重臣・酒井忠次の家臣となったという説が有力とされる。

反応