本因坊丈和

本因坊丈和

江戸時代後期の天才棋士。“強力無双”と呼ばれる激しい力碁をし、本因坊道策の「前聖」に対し「後聖」と呼ばれた。もとの姓は戸谷のち葛野(かどの)、幼名は松之助。生地については伊豆説のほか信濃、江戸などがある。十世本因坊烈元に弟子入りし、16歳で初段となる。家督を継いで十二世本因坊となったのは41歳の時と遅咲きの天才だった。当時、空席となっていた幕府の役職のひとつ「碁所(ごどころ)」をめぐり、幕府お抱え碁打ちの4家(本因坊、井上、安井、林)が熾烈な駆け引きを繰り広げていた。丈和は権謀術数を駆使しライバルの井上幻庵因碩(いんせき)を降すと、ついに碁所に就任した。これを不満に思った井上因碩は弟子の赤星因徹を丈和に挑ませ碁所の地位から引き摺り下ろそうとする。赤星はいったん優勢に持ち込むが、囲碁史上名高い「丈和の三妙手」によって丈和は逆転勝ちを果たした。投了後、赤星は吐血し同年、26歳の若さで他界した。このため「吐血の局」とも呼ばれる。1839年(天保10)、引退。著作に棋譜の解説書『国技観光』『収枰精思(しゅうへいせいし)』など。墓所は東京都豊島区にある本妙寺。ここには本因坊の四世から二十一世までが眠る。

反応