本多正純

本多正純

幼名は千穂。通称は弥八郎。
徳川家康の参謀・本多正信の息子(長男)で、父同様の策謀家として知られる。
幼少より家康に仕え、父譲りの頭脳をもって家康に重用された。家康が将軍職を息子の秀忠に譲り大御所となり駿府に移るとこれに従い、家康のブレーンとして内政・外交に辣腕を振るい大御所政治を支えた。
1614年の大坂冬の陣で講和条件にはなかった大坂城内堀埋め立てを献策したのも正純といわれる。家康に続き二代将軍・秀忠付の年寄(のちの老中)だった父・正信も没すると、正純は駿府から江戸に移り秀忠の側近となった。正純の権勢はますます増し、1619年には宇都宮藩15万5000石を与えられた。老中にまで上り詰め幕政を牛耳った正純だったが、1622年、突然老中職を罷免、本多家は改易となり、正信は出羽国横手に流罪となった。
その理由については、正信の政敵・土井利勝らの謀略だったとも、秀忠が正純を疎ましく思っていたからだともいわれるが真相は不明。なお、世に言う「宇都宮釣り天井事件」といわれる正純の二代将軍・秀忠暗殺計画は俗説である。
絶大な権力を振るった本多正純だったが配流先では過酷な生活を強いられ、1637年3月10日、失意のうちに世を去った。

反応