李儒文優りじゅぶんゆう

李儒文優りじゅぶんゆう

李儒、字を文優といい、司隷馮翊郡郃陽県の人である。184年、黄巾の賊が反乱してから郃陽の民衆がこれに呼応して反逆した。県令曹全がこれらを討って鎮圧し、県の名士らを起用したので李儒らは召しだされた。185年10月、李儒は、その領民として商量、司馬集らとともに善政を讃えて碑を立てた。189年、董卓が何進の号令によって召しだされると、入朝して李儒は官僚となった。のちに少帝の郎中令となった。190年、李儒は、董卓によって廃帝となった弘農王劉弁を毒殺するよう命じられた。李儒は「このお薬を服用なされば邪気を払えまするぞ」と毒酒を献じた。弘農王は「我は病気ではない。これは我を殺そうとしたものであろう」と言って受け取ろうとしなかったが、李儒が力づくで飲ませようとした。こうして弘農王はやむなく薬を飲み、死んだ。弟の劉協が董卓によって皇帝に立てられていたが、兄王の死を聞いて玉座から崩れ落ち、限りなく哀しんだ。192年、董卓が呂布らによって殺されると、李傕、郭汜らが実権を握った。李傕が李儒を侍中に推挙すると、献帝は「李儒はかつて弘農王の郎中令となり、我が兄に迫って弑逆した。まこと処罰を加えるべき輩である」と詔勅を下した。しかし李傕はあくまでも「董卓の仕業であって李儒の本意ではありませぬ。罪なき者を処罰してはなりませぬ」と譲らなかった。李傕によって侍中に推挙されてから、一切の消息は不明である。『正史三国志』には史跡が残されておらず、『後漢書』と『後漢紀』に記されている。また、185年に建てられた『漢郃陽令曹全紀功碑』では、筆頭として数えられている。『三国志演義』では董卓の娘婿として登場する。董卓が洛陽を支配した後に、弁皇子の殺害及び献帝の擁立や、諸侯による董卓討伐軍が洛陽に迫ったことへの対策として長安への遷都など、董卓に対し悪政の進言を積極的に行うなど、知恵袋的人物として活躍した。また、「連環の計」にも気付き、呂布との対立を深める董卓を諫めるも聞き入れられず、「我等全員女(貂蝉)の手に掛かって死ぬのか」と嘆いていた。李儒の最期は董卓が暗殺されたとき、王允によって連座されて捕らえられ、四つ裂き刑にされた。『横山光輝三国志』では呂布が謀反を起こして董卓を殺すと、その場に居合わせた李儒は「呂布・・・おまえ・・・」の台詞を残してあっさり呂布に殺されてしまう。

反応