来敏敬達らいびんけいたつ

来敏敬達らいびんけいたつ

来敏、字を敬達といい、義陽郡新野県の人である。後漢の来歙の末裔である。父は、霊帝の代に司空の来エン、子は、来忠がいる。漢末の大乱に遭遇し、来敏は姉について荊州に逃げた。姉の夫の黄エンの妻は劉璋の祖母の甥であったので、劉璋が荊州から黄エンの妻を引き取った。来敏はかくて姉とともに蜀に入り、つねに劉璋の賓客となった。劉備は益州を平定すると、来敏を典学校尉に任じ、太子を立てるに及んで、彼を太子の家令にした。劉禅は即位すると、来敏を虎賁中郎将に任じた。丞相諸葛亮が漢中にいたとき、要請して軍祭酒、輔軍将軍に就任させたが、ある事件にひっかかって職を去った。諸葛亮の死後、成都に戻って大長秋になったが、また免職になった。後に官に戻り、光禄大夫にまで昇進したが、またも過失を犯して退けられた。後に来敏を執慎将軍に任命したのは、彼が官の重さを自覚して自戒することを望んでいたからであった。景耀年間(258年~263年)に来敏は96歳で亡くなった。享年不明。来敏が何度も免職や格下げになったのは、すべて言葉に節度がなく、行動が異常だったからである。そのころ孟光もまた重大事に対して慎重な態度をとらず、当時の人々に逆らう議論をしていたが、それでもまだ来敏よりはましであった。ふたりとも年老いた徳望高き学者として世間から大切にされていたのである。しかも来敏は荊楚の名家であり、劉禅の東宮時代の旧臣であったため、特に優遇された。そのために、免職になってもふたたび起用されたのである。『諸葛亮集』に掲載された命令書によると、「将軍の来敏は上役に対してあからさまに、『新入りにどんな手柄や徳行があって、私の栄誉ある地位をとりあげて彼らに与えるのですか。諸人は一致して私を憎んでおりますが、何の理由でそんな態度をとるのですか』と述べた。来敏は年老いて常軌を逸し、このような怨みごとをいったのである。昔、成都が平定されたばかりのとき、論者たちが来敏は全体の統一を乱す人物だと主張した。先帝は平定したばかりの時期であるからと、そのまま我慢されたが、礼遇されることはなかった。後に劉子初(巴)が選抜して太子の家令としたところ、先帝は不機嫌な様子を示されながらも、拒否するのは忍びないと思われたのである。主上(劉備)が即位なされた後、私に人を見る目がなかったため、またも抜擢して将軍・祭酒に任じたが、これは論者たちの判断を無視し、先帝が排斥されたご趣旨にもとることになってしまった。自分としては軽薄な風俗を純朴ならしめ、道義によって指導してくれるだろうと考えたのである。現在それができない以上、上表して退職させ、門を閉ざして誤ちを反省させるものである」書物を広く読みあさって、『左氏春秋』をよくし、『三倉』『広雅』の訓詁学にもっともくわしく、文字を校正することを好んだ。

反応