松平定政

松平定政

江戸時代前期の大名、三河国刈谷藩主。初代将軍・徳川家康の母である於大の方は祖母にあたり、家康は伯父にあたる。家康の異父弟・松平定勝の六男として生まれ、24歳の時、小姓として3代将軍・家光に仕えると順調に出世し、1649年(慶安2)に刈谷城2万石の大名となった。その2年後に家光が死去するとそのあとを追い殉死しようとするが果たせず、定政は無届で上野の東叡山寛永寺で剃髪、「能登入道不伯」と号して出家してしまった。その際、定政は、領地や居宅、諸道具は一切返上するので困窮する旗本の救済に当ててほしい旨を大目付に提出、さらに新将軍・家綱の輔佐役の不当や大名改易により困窮する旗本を救済できずにいる幕閣を痛烈に批判する意見書を老中に提出した。托鉢僧となった定政は長男と家来2人を連れて江戸の辻々を托鉢して歩いたという。この突然の出家事件にあわてた幕府は「狂気の沙汰」として定政の領地を没収、定政は兄で松山藩主の定行にお預けとなった。蟄居中も家綱の命により2000俵を与えられていたので生活には困らず、和歌や華道に親しみながら晩年をすごした。墓所は愛媛県松山市にある常信寺。ちなみに、定政の出家事件の直後、由井正雪による「慶安の変」が起きているが、正雪は遺言に定政の出家に対する幕府の対応を批判している。

反応