松平容頌

松平容頌

江戸時代中期から後期の大名、陸奥国会津藩の5代藩主。保科正之からはじまる会津松平家の5代目にあたる。幼名は亀之助、初名は容綏、のち容清。官位は従四位下、侍従兼肥後守、正四位下、左近衛権中将。4代藩主・松平容貞の子として生まれ、55年という長きにわたり藩主を務めた。藩主就任時、会津藩は藩財政が窮乏し年貢増徴による財政再建を行おうとしてが農民の反対を受け失敗、さらに天明の大飢饉により大被害を受け藩内は混乱していた。そこで容頌は、家老・田中玄宰(はるなか)の大改革「天明の大改革」建議書を受け改革に乗り出した。玄宰のもと、徹底した倹約、農村復興、養蚕業の奨励、殖産興業の振興、蝋や漆の専売制の強化などが行われた。また、藩校「日新館」を創設し教育の普及と人材育成にも取り組んみ、結果、財政再建は成功した。墓所は福島県会津若松市にある会津藩松平家の墓所。

反応