松林宗恵

松林宗恵

松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年7月7日 – 2009年8月15日)は、日本の映画監督。元海軍士官で、僧侶でもある。法名、釈 宗惠(しゃく しゅうえ)。

島根県江津市桜江町(元邑智郡桜江町)の浄土真宗の寺の五男に生まれる。小学校から井原村満行寺(現・邑智郡邑南町)に移り、中学は広島新庄中学に入学、二年生から広陵中学(現・広陵高校)に転校し広島市へ出た。1938年卒業後京都へ進み龍谷大学専門部を卒業。日本大学芸術学部に移り、在学中の1942年に、映画に仏心を注入したいと考え東宝撮影所の助監部に入る。

学部を短縮卒業して海軍第三期兵科予備学生となり、1944年、海軍少尉に任官、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長となる。戦後復員して東宝に復職。その後、東宝争議に際し、渡辺邦男、斎藤寅次郎らに従って新東宝に移った。

1952年に上原謙主演の『東京のえくぼ』で初監督。藤本真澄プロデューサーの東宝復帰に伴い、新東宝を退社して東宝に復帰。以降は、森繁久彌主演の『社長シリーズ』をはじめとする喜劇や『連合艦隊』をはじめとする戦争映画など、多岐にわたる68本の劇映画を監督した。自らの作家性よりも脚本の意図に忠実に撮影する職人気質で知られるが、仏心を描こうと常に心がけていたという。先輩の黒澤明、市川崑のように華々しい映画賞に恵まれる存在ではなかったが、大ヒットシリーズと特撮超大作のどちらも着実にこなし、上記の二人が不在だった1960年代後半には岡本喜八と並ぶ東宝のエース監督であった。市川とは特に仲が良く、1979年の『女王蜂』の応援監督として全く違和感のないBパートをこなしている。

大乗刊行会『大乗 : ブディストマガジン』第16号(1965)より
本名 松林 宗惠( しゅうえ)
生年月日 (1920-07-07) 1920年7月7日
没年月日 (2009-08-15) 2009年8月15日(89歳没)
出生地 日本・島根県江津市桜江町
職業 映画監督
活動期間 1942年(昭和17年) – 2009年(平成21年)
活動内容 劇映画、テレビ映画等の監督、演出
主な作品
人間魚雷回天(1955年)
社長シリーズ(1958 – 70年)
連合艦隊(1981年) 他
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