松永安左エ門

松永安左エ門│無料動画│showa 00402 m

現在に至る9電力体制を推し進め、「電力王」「電力の鬼」の異名をとった実業家。また、「耳庵(じあん)」という号を持ち、茶人としても名高く、近代小田原三茶人のひとりでもある。さらに、古美術コレクターとしても知られ、そのコレクションは東京国立博物館などに寄贈されている。中学生の時に福沢諭吉の『学問のすすめ』を読み感銘を受け、慶應義塾大学に入学。大学中退後、在学中に知り合った福沢諭吉の娘婿・福沢桃介の紹介で日本銀行に入社した。だが、1年で退社。その後、桃介と共同事業に着手しさまざまな事業を経て、1909年、九州は福岡に市電を運営する福博電気軌道株式会社を設立、翌年には九州電気(のちに九州電灯鉄道)を設立した。1922年、九州電灯鉄道と関西電気が合併し東邦電力になると副社長に就任(のち社長)、西日本に大きな影響力を持つようになる。松永は次に東京進出を図り、東邦電力の子会社・東京電力を設立、首都圏において東京電燈と「電力戦争」といわれた激しい覇権争いを展開した。競争の末、1927年、両社は合併し、松永は取締役に就任。松永は国家による電力管理に反対する立場を取り、民間主導の電力会社再編を主張していた。激しい気性の松永は官僚嫌いでもあり、「官吏は人間のクズ」と言い放ち大問題に発展したこともある。戦争が激化すると電気事業は国家の管理下におかれ、それにともない東邦電力も解散、松永は引退した。戦後、電気事業民営化が課題になると電気事業再編成審議会会長に就任し、現在に続く9電力体制の実現に尽力した。さらに電気料金の値上げを実施、これにより「電力の鬼」と呼ばれた。1951年には民間初となるシンクタンク「電力中央研究所」を設立し、理事量を務めた。私生活においては女性関係が非常に派手だったことで知られる。著書に『人間 福澤諭吉』『電力の鬼―松永安左エ門自伝』など。なお、音楽プロデューサーの松任谷正隆は松永の家系につながる。

反応