松田憲秀

松田憲秀

北条早雲の頃より北条氏に仕えた名門・松田家出身で、北条家中筆頭の知行だった。
左衛門佐、のちに尾張守を称した。母は、北条綱成の妹(姉とも)である。
代々松田家は北条氏の家老を務めていたため憲秀も家老として北条氏康および氏政に仕え、内政・外交両面で辣腕を振るった。1590年に豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、憲秀は当初徹底抗戦を主張した。
だが、いざ小田原城での篭城が始まり長期化すると、憲秀は長男・笠原政晴とともに豊臣方への内通を企てる。しかし、この企ては事前に発覚してしまい、憲秀は監禁、政晴は氏直に殺害されてしまった。戦後、豊臣秀吉により憲秀はその不忠をとがめられ切腹を言い渡された。なお、次男・直秀は戦後、北条氏直とともに高野山に入り、その後、豊臣秀次、前田利長に仕えた。

反応