松阪広政
松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月25日 – 1960年(昭和35年)1月5日)は、太平洋戦争時の司法大臣。A級戦犯として戦後、逮捕された。
京都府久世郡宇治町(現在の宇治市)の地主で製茶業の家に生まれた。京都二中、東京神田中学校、一高を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科を卒業。1912年(大正元年)、検事となる。
1927年10月、一般検察実務から独立した思想問題専従の特別部として「思想専門」(通称。思想部)が東京地方裁判所検事局に設けられた際には、同局検事正 塩野季彦を次席検事として支え、平田勲思想部長を通じて、三・一五事件、四・一六事件の実質的指揮を執り、思想検事として思想・言論を対象とした治安維持法適用に関わった。
1941年(昭和16年)、検事総長となる。1943年(昭和18年)、東條英機の命により“反東條”で知られる中野正剛の強引な逮捕に協力したため、中野を自殺に追い込んだ者の一人ともいわれている(中野正剛事件)。1944年(昭和19年)、小磯内閣の司法大臣となり、1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣でも留任、戦時体制下の思想統制(ないし思想弾圧)を進めた。
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生年月日 | 1884年3月25日 |
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出生地 | 京都府久世郡宇治町 |
没年月日 | 1960年1月5日(75歳没) |
死没地 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学法律学科英法科 |
検事総長
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在任期間 | 1941年7月29日 – 1944年7月22日 |
司法大臣
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在任期間 | 1944年7月22日 – 1945年8月17日 |
反応