柳沢吉保

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江戸時代前期の譜代大名。5代将軍・徳川綱吉の側用人。初名は房安、通称は弥太郎。上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸の市ヶ谷にて生まれる。6歳の時に当時、館林藩主だった綱吉に初めて謁見、家督を相続後、綱吉の家臣となった。綱吉が兄で4代将軍・家綱の後継者として江戸城入りすると、吉保も幕臣となり、以後、綱吉の寵愛を受け徐々に出世していく。吉保は、将軍親政のため綱吉が新設した「側用人」となり綱吉の右腕として活躍、1694年には武蔵国川越藩7万石の藩主となった。さらにその後、甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)が綱吉の将軍後継となると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国にも所領を与えられ15万石の大名となり、1706年には大老格に上り詰めた。将軍・綱吉の寵愛を一身に受け権勢を極めた吉保だったが、綱吉が没し6代将軍・家宣とその右腕・新井白石が幕政を仕切るようになると状況は激変、後ろ盾を失った吉保は幕政から身を引き隠居生活に入った。墓所は奈良県大和郡山市にある龍華山永慶寺、山梨県甲州市塩山小屋敷の乾徳山恵林寺。吉保の公用日記として『楽只堂年録(らくしどうねんろく)』全229巻が残っている。ちなみに東京都文京区本駒込にある都立庭園「六義園(りくぎえん)」は、吉保が綱吉から拝領された加賀藩の旧下屋敷跡地を造成した大名庭園で、将軍・綱吉も58回も足を運んだという。

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