柳生利厳

柳生利厳

江戸時代初期の剣術家、尾張藩の武士で尾張柳生家の祖。通称は兵助、兵庫助、茂佐衛門、初名は長厳、号は如雲斎、四友居士など。また、伊予守を自称した。祖父は新陰流継承者・柳生宗厳(石舟斎)、父は宗厳の長男・厳勝。大和国柳生庄(現・奈良県奈良市柳生町)に生まれ、幼い頃から祖父・宗厳に新陰流の手ほどきを受けた。24歳の時、熊本藩主・加藤清正に請われて仕官、しかし1年足らずで同僚とトラブルを起こし浪人となる。尾張徳川家に仕官するまでの間は、諸国遍歴の武者修行をし、兵法家・阿多棒庵から新当流槍術、長刀術の皆伝を授かったと伝わる。1615年(元和元年)、尾張藩主・徳川義直の兵法指南役となり、武芸にも秀でた義直に新陰流の剣術、新当流の槍・長刀の印可を授けた。こうしたことにより新蔭流は尾張藩の御流儀として確固たる地位を築いた。晩年は「如雲斎」と号し、悠々自適の日々を送った。墓所は京都市右京区花園にある妙心寺。なお、利厳の子孫は現代にいたるまで新陰流を伝承している。作家・吉川英治の小説『宮本武蔵』では武蔵と対峙しているが、実際に武蔵と立ち会ったことがあるかは不明。

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