柳生宗矩

柳生宗矩

江戸時代初期の剣術家、大名。大和柳生藩の初代藩主で、徳川将軍家の兵法指南役を務めた。初名は新左衛門、通称は又右衛門のち但馬守。新陰流の剣士・柳生宗厳(石舟斎)の子として大和国柳生庄(現・奈良県柳生町)にて生まれ、幼い頃より父から兵法を学んだ。24歳の時、徳川家康に招かれた父・宗厳が京郊外の陣屋にて新陰流の奥義「無刀取り」を披露した際、父とともに家康に謁見し、父の推挙を受け家康に仕えることになった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いにおいては大和地方の豪族工作にあたり、石田三成方を後方からけん制するなど武功をあげた。こうした功により翌1601年には次期将軍となる徳川秀忠の剣術指南役に任命された。1615年(慶長20)の大坂の陣では秀忠に従って従軍、また、1616年(慶長21)に起きた家康の孫・千姫救出にからむ坂崎直盛の氾濫未遂事件「坂崎事件」では交渉役として武器を用いず解決した。50歳の時、のちの3代将軍・家光の兵法指南役となり、剣術を伝授した。剣術だけでなく政治手腕にも優れていた宗矩は家光からあつく信頼され、諸大名の監視役である「惣目付(のちの大目付)」に登用されるなど幕閣としても活躍、ついには大名に列せられ大和国柳生藩を立藩するまでに大出世を果たした。剣豪でこれほどの出世を果たした人物は稀有である。墓所は東京都練馬区にある圓満山廣徳寺や、奈良県奈良市柳生下町にある神護山芳徳禅寺。子に、隻眼の剣士として小説などでもおなじみの柳生三厳(十兵衛)、将軍家師範役を継いだ柳生宗冬らがいる。著書の『兵法家伝書』は宮本武蔵の『五輪書』とともに「禁制武道書の二大巨峰」といわれる書で、「活人剣」「治国平天下の剣」「無刀」「剣禅一致」など後代の剣術・武道に多大な影響を与えた思想が示されている。宗矩により新陰流(柳生新陰流)は将軍家御流儀として確立され、「天下一の柳生」と呼ばれるほど巨大な流派に成長していった。

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