栗林忠道
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 ‐ 1945年〈昭和20年〉3月26日[注釈 1])は日本の陸軍軍人。陸士26期・陸大35期次席。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)[注釈 2]。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。
第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。
敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり
然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ為に御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫び申し上ぐ
特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す、今や弾尽き水涸れ戦い残れる者全員いよく最後の敢闘を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨砕身亦悔ゆる所にあらず
茲に将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へ御別れ申上ぐ
終りに左記駄作、御笑覧に供す。
戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季が、その他に田中隆吉、影佐禎昭らがいた。
然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ
1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科:騎兵、席次:125番)、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり、馬術を専修。1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉。1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受。同年12月、栗林義井(よしゐ)と結婚[注釈 3]。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員の新藤義孝がいる(たか子の子)。
陸軍騎兵大佐時代の栗林
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生誕 |
1891年7月7日 日本 長野県埴科郡西条村 |
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死没 |
日本 東京都小笠原諸島硫黄島村(硫黄島) |
1945年3月26日(53歳没)
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 大正3年 – 昭和20年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
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