桑山玉洲

桑山玉洲

江戸時代中期の文人画家、美術評論家。祇園南海、野呂介石とともに「紀州三大南画家」といわれる。名は政近、嗣幹、嗣粲、嗣燦と改め、字を白瑞、子戔、明夫、通称は茂兵次。号はほかに明光居士、珂雪漁人、玉津嶋漁人、蘆泮、また堂号は鶴跡園、珂雪堂、聴雨堂、勧耕舎など。紀伊国和歌浦で廻船業や両替商を営む裕福な家に生まれる。幼くして父を亡くすと家業を継ぎ、青年期は実業家として過ごし新田開発で大きな成果をあげた。そのかたわら画業を志し、江戸や京で書画収集を行ったり、江戸で雪舟派や狩野派の手ほどきも受けた。26歳頃、画業に本腰を入れ始め、池大雅や柳沢淇園らといった当代一流の文人画家たちと交流しながら独学で技術を高め、やがて独自の画風を確立していく。代表作に『那智瀑布図』『熊野奇勝図巻』など。また、美術評論家としても当時から知られ、画論『画苑鄙言』を著した。墓所は和歌山市和歌浦中にある宗善寺。

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