梁鴻志
梁 鴻志(りょう こうし)は中華民国の政治家。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳に就任した。字は衆異。晩号は遇叟。
6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後に秀才になり、さらに1903年(光緒29年)には癸卯科挙人となる。1905年(光緒31年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。1908年(光緒34年)の卒業後、山東省の登莱高膠道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。
1915年(民国4年)9月、袁世凱の皇帝即位運動における請願連合会文牘組副主任となり、福建省の誓願人としても名を列ねた。1916年(民国5年)6月の袁死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段芝貴の秘書長をつとめた。この間に、王揖唐と親交を結び、1918年(民国7年)3月に王が安福倶楽部を創始すると、梁もこれに加わる。さらに参議院議員に当選し、8月に参議院秘書長に就任している。1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、梁も指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込んだ。
出典:『写真週報』1940年4月3日号
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プロフィール | |
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出生: | 1882年(清光緒8年) |
死去: |
1946年(民国35年)11月9日 中華民国(国民政府)上海市 |
出身地: | 清福建省福州府長楽県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 梁鴻志 |
簡体字: | 梁鸿志 |
拼音: |
Liáng Hóngzhì |
和名表記: | りょう こうし |
発音転記: | リャン ホンジー |
ラテン字: | Liang Hung-chih |
反応