棗祗そうし

曹真子丹そうしんしたん

棗祇といい、豫州潁川郡の人である。子は棗処中、孫は棗拠がいる。元の姓は蕀であった。最初、義兵を起こし、各所の征討に従事した。のちに袁紹が冀州にいて、やはり棗祇に執着をもち、彼を手に入れたいと願った。棗祇は曹操を深くたよって結びつき、東阿の令を引き受けた。呂布が乱に、張邈とともに兗州がこぞって背いたとき、棗祇は兵をもって城にたてこもって、ただ范と東阿だけが安泰だった。のちに大軍の食糧が欠乏したとき、東阿を抑えてつないで、功績をあげた。黄巾残党を破って許を平定すると、賊の物資を手に入れた。屯田を設置するにあたっては、当時の論者たちがみな牛の数を計算して穀物を輸送すべきだと主張した。屯田法がそのように決定され施行されたのち、棗祇は牛をやとって穀物を輸送すると、豊作の場合も穀物が増えず、水害や旱害の災害があれば大いに不都合である旨具申した。何度も進言してきたが、曹操はなおもやり方を改正する必要がないと考えていた。棗祇はなおも自説を固執したので、荀彧と議論させた。そのとき、軍祭酒の侯声が、「屯田法によって官牛を収め、官田のために計ればよい。棗祇の案は、官にとって都合がよいが、寄留者にとって不都合である」と述べた。侯声はこの説にそっていろいろ述べて、荀彧を迷わせた。棗祇はなお自己の信念を変えず、計算にもとづき意見を述べ、田地分割の策をあくまで主張した。曹操はそこでそれに賛成し、棗祇を屯田都尉にとりたて、農業政策を執行させた。その後、収穫は大豊作であり、けっきょくその政策によって田地は増大した。軍事の必要を充て、反逆者を滅ぼし、天下を平定し、王室の隆盛を導いた。棗祇は軍務の途中、不幸にも早く亡くなった。享年不明。『魏武故事』の命令書によると、「もと陳留の太守棗祇は忠誠有能な天分をもつ」と評されている。棗祇が亡くなって、曹操は「郡の太守の官を追贈したが、なおその功績にふさわしくない。今、重ねてそのことを思う。棗祇は侯にとりたてるのが当然である」といった。棗祇の本来の姓は蕀であったが、先祖が難を避けたとき、改めて棗とした。棗祇の子孫らは晋国でいずれも優秀で、才能を発揮し、後世に名を残した。

反応