楊顒子昭ようぎょうししょう

楊顒子昭ようぎょうししょう

楊顒、字を子昭といい、襄陽郡の人である。一族に楊儀がいる。蜀に入って巴郡太守となり、丞相主簿となった。ある日、諸葛亮が会計簿を点検しているのをみて楊顒は、「政治をやるには分担というものがあり、上下は互いに侵しあってはいけません。これを家族にたとえて説明させていただきます。ここに主人がいるとして、奴僕は耕作を行い、奴婢は炊事に当たり、鶏は時を告げ、犬は盗人が来たら吠え、牛は重い荷物を負い、馬は遠い道を行くならば、各人の努めに空白を生ぜず、求めるところはすべて定まり、枕を高くして眠り、安じて飲食をとることができます。しかし、それらの仕事をすべて自分でやって他人任せにしないとなれば、身も心も疲れ果て、結局何一つ成就できません。これは主人の智が奴婢鶏犬に及ばないからだとは、どうして言えましょう。それは一家の主人としての法を失ったせいでございます。古人は坐して政治方針を論ずる者を三公といい、立ってこれを実行に移す者を士大夫というと申します。ですから前漢の宰相丙吉は道傍に死者が横たわっていても、これは下僚の職務であるとして不問に付し、牛があえいでいるのを見ると、陰陽が調和を失ったのではないか、それを整えるが三公としての自分の役目だ、と考えて心配したのです。前漢の左丞相陳平は銭穀の数量をあえて知ろうとはせず、それを問われれば各担当者に聞くようにと答えたのです。彼らはよく職務の分担を心得る人たちでした。今、丞相は政治の任に当たり、御自分で帳簿を点検なさり、終日汗を流されるのは、過重な働きではありますまいか」と諌めた。諸葛亮はその言葉に感謝した。その後、楊顒が死去した時には三日間、涙を流し続けた。享年不明。234年、諸葛亮は五丈原に進んで司馬懿を対峙した。ある日、諸葛亮の使者が魏軍に訪れた。司馬懿は使者にさりげなく諸葛亮の日常生活を訊ねた。使者は「諸葛公は朝早く起き、夜遅くおやすみになり、鞭打ち二十以上の罰は御自分で裁決なされてます。召し上がる食事は、一、二升にもなりません」と答えた。司馬懿は使者が帰ったあと、「彼の命は長くあるまい」と言った。『三国志演義』においても楊顒の諌めた言葉はそのまま使われている。

反応