榎尾義男

榎尾義男

榎尾 義男(えのお よしお、1902年 – 1989年)は、日本の海軍軍人。海兵51期。最終階級は海軍大佐。

1902年、広島県双三郡川地村(現三次市)の農家に生まれる。旧制三次中を経る。1920年8月26日海軍兵学校第51期入学、1923年7月14日、海軍兵学校51期を255名中13番で卒業。1933年12月1日、海軍大学校甲種33期に入学、1935年11月卒業。成績は本来恩賜の軍刀に値するものであったが席次を引き下げられている。教官であった高木惣吉は当時の海大首脳の理不尽な指示があったことを指摘している

1936年12月「有明」駆逐艦長。1937年12月呉鎮守府参謀。1940年1月15日駐仏武官補佐。

1941年12月太平洋戦争勃発。1942年1月6日第六水戦参謀。アドミラルティ諸島掃討のためのラバウル出発準備で、榎尾は松永敬介中佐とともにラバウル攻略部隊指揮官に対し、なるべくすみやかに敵空襲部隊の中継基地であるガスマタの攻略を必要とするので準備をいかんなくするため中止すべきと進言して認められた

1942年6月15日軍令部一課。1943年11月22日軍令部作戦班長。

生誕 1902年
日本、広島県
死没 1989年
所属組織 日本海軍
最終階級 海軍大佐
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